今から約500余年前の文明3年(1471)、戦国大名・朝倉氏が5代103年間にわたって越前の国を支配した城下町跡。
最盛期には、人口1万人を超えたといわれ、雄大な城下町と雅やかな文化の華を咲かせた。
しかし、朝倉氏は天正元年(1573)に織田信長に敗北。火を放たれ、その長い歴史の幕を閉じた。
そして、昭和42年、初めて本格的な発掘調査が行われて以来、当主の館や武家屋敷・寺院・町屋・職人屋敷や道路に至るまで町並がほぼ完全な姿で発掘。
昭和46年には、国の「特別史跡」に指定、
特別史跡・特別名勝
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一乗谷朝倉氏遺跡 11.07.23
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福井県福井市城戸ノ内町ほか・一乗谷朝倉氏遺跡は、福井県福井市城戸ノ内町にある戦国時代の遺跡である。
・戦国時代に一乗谷城を中心に越前国を支配した戦国大名朝倉氏の遺跡。
・一乗谷城(山城)と山麓の城下町(朝倉氏および家臣の居館)からなる。
・遺跡全体(面積278ヘクタール)が国の特別史跡で、そのうち4つの日本庭園は一乗谷朝倉氏庭園の名称で国の特別名勝の指定を受けている。
・福井市街の東南約10キロメートル、九頭竜川水系足羽川支流である一乗谷川下流沿いの細長い谷あい(一乗谷、東西約500メートル、南北約3キロメートル)に築かれた戦国時代の城下町と館跡および背後の山城が一乗谷朝倉氏遺跡である。
・一乗谷は、東、西、南を山に囲まれ、北には足羽川が流れる天然の要害で、周辺の山峰には城砦や見張台が築かれ、地域全体が広大な要塞群であった。
・また、三国湊に続く足羽川の水運や大野盆地に通じる美濃街道、鹿俣峠を抜け越前府中へ続く街道などが通り交通の要衝でもあった。
・一乗谷の南北に城戸を設け、その間の長さ約1.7キロメートルの「城戸ノ内」に、朝倉館をはじめ、侍屋敷、寺院、職人や商人の町屋が計画的に整備された道路の両面に立ち並び、日本有数の城下町の主要部を形成していた。

◎歴史
・「朝倉家伝記」や「朝倉家記」などの新資料によると、朝倉氏は南北朝時代には、一乗谷を本拠にしていたようである。
・文明年間には重臣が一乗谷に集住するようになり、また、足利将軍家の分家である鞍谷公方などもいたことから応仁の乱により荒廃した京から、多くの公家や高僧、文人、学者たちが避難してきたため一乗谷は飛躍的に発展し、華やかな京文化が開花した。
・このため北ノ京とも呼ばれた。戦国4代朝倉孝景の頃から全盛期を迎え、最盛期には人口1万人を超え、越前の中心地として栄えていた。
・1499年(明応8年)には足利義稙が朝倉貞景を頼り来訪する。
・1567年(永禄10年)11月21日には戦国5代朝倉義景が足利義秋を安養寺に迎える。
・義景は義秋を歓待するが、同年7月24日、義昭は上洛を果たすため織田信長を頼って美濃国に出国する。
・1573年(天正元年)8月16日、刀禰坂の戦いに大敗した義景は一乗谷を放棄し大野へ逃れる。
・翌日、信長の軍勢によって火を放たれ一乗谷は灰燼に帰した。
・この戦の功績により信長から守護代職を与えられた朝倉氏旧臣の桂田長俊(前波吉継)が一乗谷に館を構え、越前を統治していた。
・しかし、同じ旧臣である富田長繁ら国人は長俊に反感を抱いており、民衆に一揆を起こさせるべく画策した。
・1575年(天正3年)1月18日、吉田郡志比庄で一揆が蜂起、翌日には長繁を先頭に坂井郡、吉田郡、足羽郡の一揆勢3万3千人が一乗谷に攻め入り、長俊は一族もろとも討ち取られた。
・信長が一揆を平定した後、越前八郡を与えられた柴田勝家は本拠を水運・陸運に便利な北ノ庄に構えたため、辺境となった一乗谷は田畑の下に埋もれていった。
◎一乗谷城
・朝倉氏によって当主館の東側背後、西方に福井平野を一望できる標高473メートルの一乗城山に築城された中世山城。
◎唐門
・は朝倉館跡正面の堀に面して建つ、幅2.3メートルの唐破風造り屋根の門。
・朝倉氏の遺構ではなく、のちに建てられていた松雲院の寺門として朝倉義景の菩提を弔うために作られたと伝わる。
・門表には朝倉家の三ッ木瓜の紋が刻まれている。
・現存するものは江戸時代中期頃に再建されたものである。

◎朝倉館跡
・一乗谷の中心部に位置する朝倉家当主が居住した館である。
・西、南、北の三方を高さ1.2メートルないし3メートルほどの土塁で、その外側を幅約8メートル、深さ約3メートルの堀で囲んでいる。
・三方の土塁にはそれぞれ隅櫓や門があった。
・西方にある門が正門(御門)であり、現在は唐門が建てられている。
・平坦部の面積は約6,400平方メートルあり、内部には17棟の建築物があった。
・館内最大の常御殿(東西約21.4メートル、南北約14.2メートル)を中心に、南側には主殿や会所・数寄屋・庭園・花壇など接客用の施設群が、北側には台所や持仏堂・湯殿・蔵・厩など日常生活のための施設群が存在した。
・建物はすべて礎石に角柱を立てて建てられており、屋根はこけら板等を葺いていたと考えられているが、鬼瓦や棟石等も発掘されている。
・舞良戸や明障子などの引き戸を多用し、畳を敷きつめた部屋も多かったとされる。
・1968年(昭和43年)に常御殿の南側中庭で花壇の遺構が発見された。東西9.8メートル、南北2.8メートルの長方形をなし、花粉分析等により、春にはシャクナゲやボタンなどが、秋にはキクやハギなどが植えられていたことが判明した。
◎中の御殿跡中の御殿跡
・義景館跡の南隣にあり、空堀を隔てて湯殿跡庭園とほぼ同じ高さの場所にある。足利義秋から従二位に叙せられた朝倉義景の母である光徳院が居住したと伝えられている御殿跡。
◎城下町
・復原町並南北を城戸に囲まれた約1.7キロメートルの谷間に形成されていた。
・100尺(約30m)を基準に計画的に町割がなされた町並みは京都のように整然としていたようである。
・1995年(平成7年)には発掘結果や史料等を参考に200メートルにわたって当時の町並みが復元され、復原町並として公開されている。


◎安養寺跡
・朝倉敏景が1473年(文明5年)に一乗谷東新町に建立した浄土宗の寺。
・開山は顕要。1488年(長享2年)8月には越前府中に滞在していた真盛(天台宗真盛派の祖)が朝倉貞景の招きに応じてこの寺で説法を行い、貞景は真盛に帰依した。
・1547年(天文16年)頃には一乗谷に滞在していた清原宣賢が「大学」、「中庸」などを講じた。
・1567年(永禄10年)には朝倉義景が足利義秋をこの寺で迎えた。この寺の隣に義秋の御所が造られた。
・朝倉氏が滅亡した後、1575年(天正3年)に北ノ庄へ移った。
・一乗谷時代の寺院遺構は朝倉館の一乗谷川対岸に位置する平面復元地区で確認されている。

◎城戸
・一乗谷を防御するため、城下町の南北に土塁を築いて城門を配した。京に近い南側は上城戸、北側は下城戸と呼ばれる。
・この間の約1.7キロメートルの「城戸ノ内」に朝倉館や侍屋敷などがつくられ城下町の主要部を形成していた。
・下城戸は東西の山が狭まった谷の入り口に設けられた。現在は幅18メートル、高さ5メートル、長さ20メートルの土塁が残っている。枡形虎口である門跡には重さ10トン超の石が積み上げられている。なかには40トンを超す巨石もある。また、城戸の外側には幅10メートル、深さ3メートルの堀があり、かつては一乗谷川と直接繋がっていたと考えられている。
・上城戸は現在は幅13メートル、高さ5メートル、長さ50メートルの土塁が残存している。巨石は残っていない。外堀も設けられていた。

- 2012/02/06(月) 13:03:44|
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新田義貞墓所 (称念寺) 11.07.23
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福井県坂井市丸岡町長崎19-17

福井県史跡
隣の福井市の燈明寺畷で戦死した新田義貞の遺骸はここに運ばれ埋葬された


・称念寺は長崎道場と呼ばれ、一遍上人という鎌倉時代のお坊さんが開いた時宗の寺

義貞の弟の脇屋義助の墓も横にある

称念寺の主な沿革
・養老5年(721)泰澄太師が長崎に阿弥陀堂を創建
・正応3年(1290)称念坊兄弟等が伽藍を整備して、時宗の念仏道場となる
・延元3年/暦応元年(1338)新田義貞公の遺骸が葬られる
・長禄2年(1458)室町将軍家は安堵状と寺領を寄進し(約100町歩)、将軍家の祈祷所となった。
・寛正6年(1465)後花園天皇の綸旨を受けて、天皇家の勅願寺となった。
・文明5年(1473)朝倉時代に寺境内は長崎城となり、一向一揆の戦乱で、金津の東山へ墓所を除き避難移転した。
・永禄5年(1562)明智光秀が門前に寺子屋を開いた。
・慶長8年(1603)結城秀康は称念寺に38石を寄進した。 以後,歴代福井藩主からの寄進で、寺が整備された。
・元禄2年(1689)8月芭蕉が称念寺を訪ねた。
・元文2年(1737)新田義貞公400年忌大法要(6月30日~7月2日 の3日間)義貞の位牌の年号を暦応元年へ変更された。
・安永4年(1775)境内3000坪に大伽藍(30の建物)完成
・天保8年(1837)新田義貞公500年忌法要
・明治に入り、神仏分離令により寺は没落
・大正13年(1924)寺が再興され、伽藍が整備された。
・昭和12年(1937)新田義貞公600年忌法要
・昭和23年(1948)福井震災で全建物が倒壊した。
・昭和42年(1967)震災復興落成式
・昭和63年(1988)新田義貞公650年忌法要
・平成9年(1997)新田義貞公660年忌法要 鐘堂建立
平成19年(2007)新田義貞公670年忌法要
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新田義貞 ーーーーーーーー
河内源氏義国流新田氏本宗家の8代目棟梁
生没:正安3年(1301年) - 建武5年閏7月2日(1338年8月17日)
改名:小太郎、義貞
戒名:源光院殿義貞覺阿彌陀佛尊位
墓所:福井県坂井市長林山称念寺 茨城県龍ケ崎市太田山金竜寺
官位:正四位下、左馬助、上野介、播磨守、越後守、左衛門佐、左兵衛督、左近衛中将 贈正二位、大納言のち正一位
氏族:河内源氏、新田氏
父 :新田朝氏、
母 :不詳
兄弟:義貞、脇屋義助、大舘宗氏室
妻 :小田真知女、天野時宣女ほか
子 :義顕、義興、義宗、千葉氏胤室、嶋田義央(義峰)
・新田氏(上野源氏)は、河内源氏3代目である源義家の四男・義国の長子である新田義重に始まり、上野国新田荘(群馬県太田市周辺)を開発した。
・義貞が家督を継承した頃の、新田宗家の地位は低かった。
・新田氏本宗家の領地は広大な新田荘60郷のうちわずか数郷を所有していたに過ぎず、義貞自身も無位無官で日の目を浴びない存在であった。
・義貞の生年については判然としていない。藤島で戦死した際、37歳から40歳であったといわれ、生年は正安2年(1300年)前後と考えられている。
・『新田正伝記』、『新田族譜』、『里見系図』などの史料は、義貞が里見氏からの養子であることを示唆している。
・義貞の出生地には三つの説がある。
宝泉村由良(太田市):『新田義貞正伝』 より
生品村反町館(新田郡新田町): 『新田氏根本資料』「筑後佐田・新田氏系図」より
碓氷郡里見郷(榛名町):『新田正伝記』「里見氏系譜」より
・文保2年(1318年)には、義貞が長楽寺再建の為、私領の一部を売却していることが文書に記述されていることから、少なくともこの年以前には元服していたと考えられる。
・元弘元年(1331年)から始まった元弘の乱では、大番役として上洛していたが、河内国で楠木正成の挙兵が起こり、鎌倉幕府に従って正成討伐に向かい、千早城の戦いに参加しているが病気を理由に無断で新田荘に帰ってしまう。
・義貞が幕府に反逆した決定的な要因は、幕府の徴税の使いとのトラブルであった。
・楠木正成の討伐にあたって、膨大な軍資金が必要となった幕府は、調達のため、富裕税の一種である有徳銭の徴収を命令、納税を迫ってきた。
・両者の行動はエスカレートし、譴責の様相を呈して来た。義貞の館の門前に、泣訴してくるものもあった。
・そのため遂に義貞は憤激し、徴税の使者を殺害した。
・元弘3年 / 正慶2年(1333年)5月、義貞は挙兵した。兵の数はわずか150騎であった。
・挙兵した義貞は笠懸野に布陣した。
・義貞は、まず後顧の憂いを絶つべく、進路を北西へ向け、幕府方の長崎孫四郎左衛門尉が守る上野守護所に攻め入って壊滅させた。
・幸先の良い快勝を収めた義貞は八幡荘で体勢を整えた。そこに利根川を越えて越後国や信濃国・甲斐国の新田一族や、里見・鳥山・田中・大井田・羽川などの氏族が合流した。
・各地から参集した軍勢と合流して義貞軍は7,000の大軍に膨れ上がり、態勢を整えると鎌倉を目指し一気呵成に進撃した。
・さらに、利根川を渡って武蔵国に入る際、鎌倉を脱出してきた足利尊氏の嫡男・千寿王(後の足利義詮)と合流した。
・千寿王の手勢は僅かに200であったが、足利尊氏の嫡男と合流したことで義貞の軍に加わろうとする者はさらに増え、各地から兵士が集まり軍勢の規模は膨大なものとなった。
・その数について『太平記』は20万7,000騎、『梅松論』は20余万騎と言及している。
・入間川を渡り小手指原(埼玉県所沢市小手指町付近)に達し、桜田貞国を総大将とする幕府軍と衝突する(小手指原の戦い)。
・幕府軍は、義貞が入間川を渡りきる前に迎撃する算段であったが、義貞の方が動きが迅速であった。
・両者は遭遇戦の形で合戦に及び、布陣の余裕はなかった。戦闘は30回を越える激戦となった。兵数は幕府軍の方が勝っていたが、同様に幕府へ不満を募らせていた河越氏ら武蔵の御家人の援護を得て新田軍は次第に有利となっていった。
・新田軍は300、幕府軍は500ほどの戦死者を出し、両軍共に疲弊し、一旦撤退して軍勢を立て直した。
・翌日、義貞の軍勢が久米川に布陣する幕府軍に奇襲を仕掛けたことで再度戦闘が発生した。桜庭貞国は奇襲に対する備えを講じており、奇襲は成功しなかった。
・幕府軍は鶴翼の陣を敷いて義貞を挟みこむ戦法を採ったが、この戦法を義貞は看破し、戦法にかかったような芝居を見せ、陣を拡散させたため手薄になった本陣を狙い打ちにした。
・桜庭貞国は軍勢を纏め、分倍河原まで退却した。
・退却した幕府軍は再び分倍河原に布陣し、新田軍と決戦を開始する(分倍河原の戦い)。
・先日の敗北により士気が下がっていた幕府軍であったが、そこに北条泰家を大将とする新手の軍勢が加わり、士気が高まった。
・一方で義貞は、幕府軍に増援が加わったことを知らずにいた。15日未明、義貞は突撃を敢行し、幕府軍と激突するが、増援を得て持ち直した幕府軍に迎撃され、堀兼まで敗走した。
・本陣が崩れかかる程の危機に瀕し、義貞は自ら手勢を率いて幕府軍の横腹を突いて血路を開き撤退した。もし、幕府軍が追撃を行っていたら、義貞の運命も極まっていたかもしれないと指摘されている。
・敗走した義貞は、退却も検討していた。
・しかし堀兼に敗走した日の夜、三浦氏一族の大多和義勝が河村・土肥・渋谷、本間ら相模国の氏族を統率して義貞に加勢した。
・大多和氏は北条と親しい氏族であったが、北条に見切りをつけて義貞に味方した。また義勝は足利一族の高氏から養子に入った人物であり、義勝の行動の背景には宗家足利氏の意図、命令があったと指摘されている。
・義勝の協力を得た義貞は、更に幕府を油断させる為、忍びの者を使って大多和義勝が幕府軍に加勢に来るという流言蜚語を飛ばした。
・翌日早朝、義勝を先鋒として義貞は虚報を鵜呑みにして緊張が緩んだ幕府軍に奇襲を仕掛け、大勝した。
・翌日、多摩川を渡り、幕府の関所である霞ノ関(東京都多摩市関戸)にて幕府軍の北条泰家と決戦が行われ、新田軍が大勝利を収めている(関戸の戦い)。
・藤沢まで兵を進めた義貞は、部隊を三隊に分割、義貞の本隊が化粧坂切通し、大舘宗氏と江田行義の部隊が極楽寺坂切通し方面から、堀口貞満、大島守之の部隊は巨副呂坂切通しから鎌倉を総攻撃した。
・しかし、天険に守られた鎌倉の守備は盤石で、部隊を三つに分けての攻撃は、いずれも失敗し、一つの部隊も突破することができなかった。
・極楽寺坂切通しを攻撃していた大舘宗氏は、波打ち際を突破して鎌倉への進路を打開しようとしたが、北条軍の迎撃によって討死した。
・義貞は化粧坂攻撃の指揮を弟・脇屋義助に委任し、本陣を極楽寺坂西北の聖服寺の谷に移し、指揮を取った。
・5月21日、義貞は稲村ヶ崎を突破する。(現在、稲村ヶ崎突破については、干潮を利用して進軍したという認識が広く浸透している。)
・『太平記』では、義貞が太刀を海に投じた所、龍神が呼応して潮が引く『奇蹟』が起こったという話が挿入されている。
・5月21日の未明に稲村ヶ崎で干潮が生じたことは天文学者小川清彦の検証によって証明されている。
・いずれにせよ、稲村ヶ崎を突破した義貞の軍勢は鎌倉へ乱入し、幕府軍を前後から挟み撃ちにして壊滅させ、鎌倉を蹂躙した。
・最後の戦場は葛西谷に推移し、北条高時ら北条一族は菩提寺の東勝寺にて自害(東勝寺合戦)、鎌倉幕府は滅亡した。挙兵から2週間という迅速さであった。
・鎌倉を陥落させた義貞は、勝長寿院に本陣を敷いた。一方、足利千寿王は二階堂永福寺に布陣した。
・鎌倉を占拠してしばらく、義貞は戦後処理に奔走した。各々の武将が義貞へ軍忠状、着到状を提出し、義貞はそれに対して証判を書いた。
・諸将への宿の割り当てや、兵卒の喧嘩の仲裁、北条残党の追捕にも尽力した。5月28日には執事船田義昌が高時嫡男の北条邦時を捕らえ斬首している。
・7月に入ると、義貞に矢継ぎ早に提出されていた軍忠状、着到状が突然途絶え、後醍醐天皇が京都に潜幸し、論功行賞が行われることを知った諸将が、次々と上洛してしまったためであった。
・更に、無官の新田小太郎であった義貞よりは、従五位上治部大輔であった足利高氏の方が武士の人気が高く、武士達は義貞の下ではなく高氏の子である千寿王の下へ集った。
・更に、高氏は我が子を支援する為、細川和氏・頼春・師氏の三兄弟を派遣した。鎌倉では、新田と足利が、互いに手柄を争って角逐する情勢を呈してきた。
・鎌倉の街中で武士同士の騒擾が起こった。それを鎮圧した細川三兄弟は、騒動を起こした原因は義貞にあると判断し、義貞を詰問した。
・義貞は陳弁し、起請文を提出した。事態が収束して程なく、義貞は軍勢を引き連れ鎌倉を去り、上洛した。
・元弘3年(1333年)8月初頭、義貞が鎌倉を去った事で、鎌倉は事実上足利が統治することになり、影響力を浸透させやすい土壌が鎌倉に形成された。
・これは武家政権である幕府再興の伏線の一つともなった。
・上洛後の8月5日、叙位、除目が行われ、義貞は従四位上に叙され、左馬助に任官した。さらに上野、越後、10月には、播磨介の国司となった。
・弟の脇屋義助は駿河国司となり、長男の義顕も越後守に任ぜられ、従五位上に叙された。
・既に義貞は30代半ばの年齢に達していたと思われるが、この時期の義貞の行動を観察すると、あまり思慮深い行動が見られず、政治の世界における遊泳術はさほど達者でなかったと指摘されている。
・一方、ライバルの足利尊氏は、従三位に叙され、武蔵守に任官された上、鎮守府将軍に任ぜられた。
・弟の直義は、相模守となった。
・義貞が叙任された四位と三位では雲泥の差があり、また国司として拝領した国も、義貞兄弟が拝領したものは北条氏の傍流のものであったのに対し、足利兄弟が拝領したのはかつて得宗が統治していた国であった。既に、新田と足利の差は歴然としたものがあった。
・この頃、建武政権では足利尊氏と護良親王による政争が起こっていた。
・親王は、やがて尊氏の策略によって父の命令により拘束、幽閉される。この時、義貞は武者所の頭人として、親王の捕縛を主導した。
・親王失脚後、旗頭を失った宮方が、新たな旗頭に義貞を擁立しようとする動きを見せた。
・この時期、新田一族の昇進が顕著であり、義貞自身は左兵衛督になった。これらの昇進は、義貞を尊氏の対抗馬にしようとする天皇の意図がある。
・鎌倉で北条時行蜂起したのに対し、足利尊氏は後醍醐天皇の勅状を得ないまま討伐に向かい、鎌倉に本拠を置いて武家政権の既成事実化をはじめる。
・尊氏は義貞を君側の奸であるとしてその追討を後醍醐天皇に上奏するが、逆に天皇は義貞に尊氏追討令を発し、義貞は尊良親王を奉じて東海道を鎌倉へ向かう。
・義貞は弟、脇屋義助とともに矢作川の戦い(愛知県岡崎市)、手越河原の戦い(静岡県静岡市駿河区)で足利直義・高師泰の軍を破るが、鎌倉から出撃した尊氏に箱根・竹ノ下の戦いで撃破され、尾張国に敗走した後、京へ逃げ帰る。
・建武3年(1336年)正月、入京した尊氏と京都市外で再び戦い、奥州より上ってきた北畠顕家と連絡し、京都で楠木正成らと連合して足利軍を駆逐する事に成功。
・再入洛を目指す足利軍を摂津国豊島河原(大阪府池田市・箕面市)で破る(豊島河原合戦)。
・この功により2月、正四位下に昇叙。左近衛中将に遷任。播磨守を兼任。さらに、九州へ奔る尊氏を追撃するものの、播磨国の白旗城で篭城した赤松則村(円心)に阻まれて断念。
・尊氏は九州を平定し海路東上してくるが、義貞は白旗城に篭城する赤松軍を攻めあぐね、時間を空費する。
・楠木正成らと共同して戦った湊川の戦い(兵庫県神戸市)において義貞は和田岬に陣を構えて戦うが、足利水軍の水際防衛に失敗して破れ、西宮(兵庫県西宮市)で再起を図るが京へ敗走する。
・湊川の戦いの後、比叡山に逃れた宮方は、足利方に奪還された京都を取り戻すために賀茂糺河原などに攻め下るが阻まれる。
・後醍醐天皇は足利方との和議を進め、義貞を切り捨てて比叡山から下山しようとしたが、新田一門の堀口貞満が直前に阻止した。
・後醍醐天皇は朝敵となる可能性の出た義貞に対し、皇位を恒良親王に譲り、恒良親王と尊良親王を委任し官軍であることを担保することで決着し下山。
・義貞は両親王と子の義顕、弟の脇屋義助とともに北陸道を進み、折からの猛吹雪で凍死者を出したり足利方の執拗な攻撃に大迂回を余儀なくされたりしながらも越前国金ヶ崎城(福井県敦賀市)に入るが、まもなく高師泰・斯波高経率いる軍勢により包囲される。
・義貞、義助は杣山城(福井県南条郡南越前町)に脱出し、杣山城主・瓜生保と協力して金ヶ崎城の包囲陣を破ろうとするが失敗する。
・金ヶ崎城は延元2年 / 建武4年(1337年)3月6日落城し、尊良親王、義顕は自害し、恒良親王は捕らえられ京へ護送される。
・夏になると義貞は勢いを盛り返し、鯖江合戦で斯波高経に勝利し、越前府中を奪い、金ヶ崎城も奪還する。
・翌延元3年/建武5年(1338年)閏7月、武家方に寝返った平泉寺衆徒が籠もる藤島城を攻める味方部隊を督戦に向かうが、越前国藤島の燈明寺畷(福井県福井市新田塚)で黒丸城から加勢に向かう敵軍と偶然遭遇し戦闘の末戦死した。
・新田義貞は、南朝を主導していた北畠親房との確執があったとも言われ、親房の『神皇正統記』では「上野国に源義貞と云ふ者あり。高氏が一族也」と足利尊氏より格下の扱いを受け否定的に書かれている。
・『太平記』では、九州へ落ちた尊氏を追討せよとの命を受けた義貞が、後醍醐天皇より下賜された女官である勾当内侍との別れを惜しみ時機を逸したとのエピソードが記されている。勾当内侍とは内侍司の役職の1つで、後醍醐天皇に仕えた一条経尹の娘をさす。年代などから実在は疑わしく架空の人物と考えられている。
・群馬県太田市新田反町町896にある反町薬師は、新田義貞の挙兵時の屋敷跡と伝えられ、「反町館跡」とも呼ばれる。館跡は「新田荘遺跡」の一部として2000年に国の史跡に指定されている。
・義貞の直系では、応永年間に義宗の子・新田貞方(義邦)が捕縛され、長子の貞邦と共に鎌倉で処刑されて断絶したという。
・しかし、貞方の諸子の内堀江貞政は堀江氏と称し、武蔵国稲毛に逃れた。貞政の子孫は後北条氏に仕えた。
・さらに、もうひとりの子の中村貞長は陸奥に逃れ、中村氏と称し、伊達氏に仕えた。
・庶家は藤沢氏などが出て現存している。さらに、義宗の庶子とする新田宗親(親季)もひっそりと在続しているという。
- 2012/01/19(木) 23:56:39|
- 古墳・廟・墓
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眼に御利益があるの仏様
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木之本地蔵院 11.07.22
http://www.kinomoto-jizo.com/ーーーーーーーーーーーーーーー
滋賀県長浜市木之本町木之本944 山号 長祈山
宗派 時宗
本尊 地蔵菩薩(秘仏・重要文化財)
創建年 伝・天武天皇4年(675年)
開基 伝・薬師寺僧
正式名 長祈山 浄信寺

伝承、天武天皇の時代(7世紀後半)、難波浦(大阪府)に金光を放つ地蔵菩薩像が漂着し、これを祀った金光寺を難波の地に建てたのが始まりという。
その後
・奈良・薬師寺の僧を開山とするもの。天武天皇4年(675年)、地蔵像をより縁深き地に安置するため聖武天皇の勅命を受け、薬師寺の祚蓮上人が北国街道を下った。
・休憩のため地蔵像を柳の下に降ろしたところ、そこから動かなくなったため、この地を安置場所と定め、柳本山金光善寺と号して一寺を建立した。
・後にこの地は、「柳の本」と言われ、さらに「木之本」と言われるようになったという。
その後、
・弘仁3年(812年)に空海が巡錫して修補し、地蔵経を書写し奉納したとの伝承もある。
・昌泰元年(898年)には醍醐天皇の勅旨により菅原道真が参拝し、長祈山浄信寺と改号したという。
・建武2年(1335年)足利尊氏は、毎年8月遣使して法会することにした。これは現在も8月に大縁日として続いている。
・尊氏は暦応元年(1338年)には田100石を浄信寺に寄進している。
・賤ヶ岳の戦いでは当寺に豊臣秀吉の本陣がおかれた。この戦いの戦火により焼失。慶長6年(1601年)豊臣秀頼の命令を受け、片桐且元が再建した。
・元文4年(1739年)、寺は再び焼失した。現在の本堂は宝暦年間(1751年 - 1764年)に僧仁山の勧進により再建されたものである。

・毎年8月に実施される地蔵大縁日には日本各地から参拝者が集まり、沿道は屋台が出て大盛況となる。 地蔵堂、阿弥陀堂、地蔵大銅像のほか、四国八十八箇所の観世音菩薩、撫仏である賓頭廬尊者、木之本ダキニシン天(稲荷)、毘沙門天、五社之宮・金比羅・岩神・秋葉之宮が祀られている。 また、古い眼鏡を供養する眼鏡塚もある。
・本尊である地蔵菩薩立像の両脇に閻魔王立像と倶生神立像が祀られている。地蔵菩薩立像は秘仏である。
・平成18年(2006年)から「御戒壇巡り」が始められた。これは参拝者が厨子の下を巡るもので、31間(56.7メートル)の漆黒の闇を歩き、錠前に触れることができる。

◎重要文化財(国指定)
・絹本著色地蔵菩薩像 鎌倉時代
・木造地蔵菩薩立像 鎌倉時代 当寺の本尊。像内納入品に仁治3年(1242年)8月の銘がある。
・木造閻魔王立像 鎌倉時代
・木造倶生神立像 鎌倉時代
・木造阿弥陀如来立像 平安時代
・木造阿弥陀如来坐像 平安時代
・銅鏡(獅子牡丹蝶鳥文 鎌倉時代の作、嘉吉2年(1442年)7月6日の針書銘がある。
- 2011/12/12(月) 16:19:35|
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