仙人奇行5

つれづれの史跡散歩

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山崎の戦い



天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変を受け、備中高松城の攻城戦から引き返してきた羽柴秀吉軍が、6月13日摂津国と山城国の境に位置する山崎において、明智光秀の軍勢と激突した戦い。


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 山崎の戦い          11.03.24
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京都府大山崎町

年月日:天正10年6月13日(1582年7月2日)
場 所:山崎(摂津国と山城国の境)

P3240792.jpg



◎羽柴軍 約4万0000(損害3,300)  織田信孝、羽柴秀吉
・高山右近・木村重茲:2000 ・中川清秀:2500 
・池田恒興・池田元助・加藤光泰:5000
・丹羽長秀:3000 ・織田信孝:4000 
・秀吉本隊:20000(蜂須賀正勝・堀秀政・中村一氏・堀尾吉晴・羽柴秀長・黒田孝高・神子田正治・蜂屋頼隆など)

◎明智軍 10,000~16,000(損害3,000)  明智光秀
・斎藤利三・柴田勝定:2000 ・阿閉貞征・明智茂朝:3000
・山城・丹波衆 松田政近・並河掃部:2000
・旧足利幕臣 伊勢貞興・諏訪盛直・御牧兼顕:2000
・河内衆 津田正時:2000
・光秀本隊:5000(藤田行政など)


◎天正10年6月2日の本能寺の変勃発時、織田家中の主要な武将ならびに同盟者・徳川家康の動静
・柴田勝家 - 越中魚津城で上杉勢と交戦中
・滝川一益 - 上野厩橋城で北条勢を牽制
・丹羽長秀 - 大坂・堺で四国征伐待機中
・羽柴秀吉 - 備中高松城近辺で毛利勢と交戦中
・徳川家康 - 堺で近習数名と見物中

◎光秀の行動
・変後の京の治安維持に当たった後、武田元明・京極高次らの軍を近江に派遣し、京以東の地盤固めを急いだ。
・数日内に近江は瀬田城(山岡景隆・景佐兄弟居城。山岡兄弟は光秀の誘いを拒絶し、瀬田橋を焼き落として抵抗の構えを見せたのち、一時甲賀方面に退避)、日野城(蒲生賢秀・賦秀父子居城)などを残し平定された。
・有力組下大名に加勢を呼びかけたが、縁戚であった細川藤孝・忠興父子は3日に「喪に服す」として剃髪、中立の構えを見せることで婉曲的にこれを拒んだ。
・筒井順慶は誘いに応じ配下を山城に派遣していたが、秘密裏に秀吉側に寝返り、9日までに居城の大和郡山城で籠城の支度を開始した後「洞ヶ峠」へ出陣

P3240784.jpg


◎合戦経過
 ・羽柴秀吉は備中高松城に篭る毛利軍を包囲していたが、清水宗治の申し出を受諾し、近日中に備中高松城は宗治の自刃によって開城されるはずであった。
6月2日
 ・未明に本能寺の変
6月3日
 ・秀吉は本能寺の変の報を入手し、ただちに毛利軍との和議を結ぶ。
6月4日
 ・秀吉はに堀尾吉晴・蜂須賀正勝を立会人にして宗治の自刃の検分を行う
6月5日
 ・撤兵開始
6月6日
 ・沼(岡山城東方)
6月7日
 ・姫路城、
6月10日
 ・光秀は秀吉接近の報を受け、急いで淀城・勝竜寺城の修築に取り掛かり、男山に布陣していた兵を撤収させた。
  <しかし、光秀は予想を越える秀吉軍の進軍に体勢を十分に整えられず、2倍から3倍とされる兵力差のまま決戦に臨むこととなる>

6月11日
 ・尼崎(尼崎市)に達し、いわゆる「中国大返し」と言われる機敏さで畿内へ急行

 ・光秀が大坂方面を重要視しなかったことも手伝って中川清秀・高山右近を始めとする摂津衆の多くが秀吉軍に味方する。
 ・四国の長宗我部征伐のために大坂に集結していた神戸信孝(織田信孝)・丹羽長秀軍も合流、最終的には2万を超える大軍に膨れ上がった。

6月12日
 ・羽柴軍は富田で軍議を開き、秀吉は総大将に長秀、次いで信孝を推したが、逆に両者から望まれて自身が事実上の盟主となる(名目上の総大将は信孝)
  <長秀と信孝は軍議に先立ち、光秀に内通の疑いがあった光秀の女婿・津田信澄を自刃に追い込んでいる>

 ・両軍は12日頃から円明寺川(現・小泉川)を挟んで対陣する。
 ・羽柴軍は前夜に中川・高山ら摂津衆が山崎の集落を占拠し最前線に着陣、
 ・池田恒興らが右翼に、また黒田孝高、羽柴秀長、神子田正治らが天王山(標高270m)の山裾から南に連なるように布陣し、
 ・秀吉の本陣はさらに後方の宝積寺に置かれた。

 ・明智軍は御坊塚(下植野)に置かれた光秀の本陣の前面に斎藤利三、阿閉貞征(貞秀)、河内衆、旧幕府衆らが東西に渡って防衛線を張るように布陣し、迎え撃つ構えを取った。

6月13日
 ・局地的な小競り合いはあったものの、翌13日(雨天だったと言われる)も対峙は続く。

 ・午後4時頃、天王山の山裾を横切って高山隊の横に陣取ろうと移動していた中川隊に斎藤利三隊の右側に布陣していた伊勢貞興隊が襲い掛かり、それに呼応して斎藤隊も高山隊に攻撃を開始し戦端が開かれた。
 ・斎藤・伊勢隊の猛攻を受けた中川・高山両隊は窮地に陥るが、秀吉は自隊から堀秀政の手勢を中川・高山両隊の後詰に向かわせ崩壊を防ぐ。
 ・天王山麓に布陣していた黒田・秀長・神子田らの部隊は前方に展開し、中川・高山両隊の側面を突くべく天王山中腹を進撃してきた松田政近・並河易家両隊と交戦、一進一退の攻防が続いた。

 ・一刻後、淀川沿いに布陣していた池田恒興・池田元助・加藤光泰率いる手勢が、密かに円明寺川を渡河して津田信春を奇襲。
 ・津田隊は三方から攻め立てられ、雑兵が逃げ出したこともあり混乱をきたす。

 ・池田隊に続くように丹羽隊・信孝隊も右翼から一斉に押し寄せ、光秀本隊の側面を突くような形となった。
 ・苦戦していた中川・高山両隊も斎藤・伊勢両隊を押し返し、動揺が全軍に広がった明智軍はやがて総崩れとなった。

 ・御牧兼顕隊は「我討死の間に引き給え」と光秀に使者を送った後、勢いづく羽柴軍を前に壊滅。
 ・光秀は戦線後方の勝竜寺城に退却を余儀なくされる

 ・主力の斎藤利三隊が壊走し戦線離脱、黒田孝高らの隊と交戦していた松田政近、殿を引き受けた伊勢貞興らが乱戦の中で討死するなど甚大な打撃を受けた。

 ・羽柴軍も前線部隊が激しく消耗し、追撃は散発的なものに留まる。
 ・明智軍では士気の低下が著しく、勝竜寺城が大軍を収容できない平城だったこともあって兵の脱走・離散が相次ぎ、その数は700余にまで減衰した。

 ・光秀は勝竜寺城を密かに脱出して居城坂本城を目指して落ち延びる途中、小栗栖の藪で土民の落ち武者狩りに遭い、そこで竹槍に刺されて絶命したとも、何とか逃れたものの力尽きて家臣の介錯により自刃したとも伝えられる

6月14、15日
 ・体勢を整えた羽柴秀吉は堀秀政を近江への交通路遮断と光秀捜索に派遣
 ・堀隊は14日に光秀の後詰のために急遽出兵した明智秀満の軍を打出の浜で迎え撃ち撃破した。
 ・300余の兵を討ち取られ敗走した秀満は坂本城で相手方に家宝を贈呈した後、光秀の妻子を殺害し、明智茂朝、明智光忠とともに自刃した。

 ・中川・高山両隊は丹波亀山城に向かい、明智光慶を自刃させ城を占拠。

6月16日
 ・京に入った羽柴軍はさらに長浜城の妻木範賢、佐和山城の荒木行重、山本山城の阿閉貞征、山崎堅家らの逃亡または降伏によって近江を平定。

6月17日
 ・斎藤利三が潜伏先の堅田で生け捕りにされ、六条河原で斬首あるいは磔刑に処された。

◎その後
・秀吉は、この信長の弔い合戦に勝利した結果、清洲会議を経て信長の後継者としての地位を固め、天下人への道を歩み始める。
・清洲会議後の7月19日には、最後に残った光秀方の将である武田元明が丹羽長秀に攻められ自刃、京極高次は妹または姉の竜子(松の丸殿)を秀吉に差し出して降伏した。

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◎他の諸将の動き
 ・柴田勝家は上杉対策を前田利家、佐々成政らに託し京に向かったが、越前・近江国境の柳ヶ瀬峠に到達したところで合戦の報が入り、そのまま清洲城に向かった。
 ・滝川一益は織田信長・信忠の死に乗じて北条軍が上野に侵攻、神流川の戦いに至る。第一次合戦で北条勢を退けるものの第二次合戦で大敗し、碓氷峠から本拠地・伊勢に7月に帰還。清洲会議にも参加できず、以後零落の一途をたどる。
 ・徳川家康は伊賀越えを経て岡崎城から光秀討伐に向かったが、鳴海に到達したところで合戦の情報が入り反転。以後、空白地帯となった甲斐・信濃の領土化を目指し、同じく甲斐・信濃の領土化を目指した北条氏と天正壬午の乱で戦う。



**現在の天王山山中には「秀吉旗立ての松」が残っている他、合戦の経過を解説する石板などが設置されている。

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  1. 2011/05/09(月) 22:09:32|
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笹尾山石田三成陣


関ヶ原合戦で奮戦も西軍随一だった三成隊の陣跡。

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 笹尾山 石田三成陣跡                10.07.28
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岐阜県不破郡関ヶ原町関が原


三成は、北国街道を守備するため、兵6,000と豊臣の兵2,000を笹尾山の正面に配し、竹矢来を二重に田の中に囲んだ陣地。
竹矢来の前面に島左近を、中間に蒲生郷舎を置き、三成自身はこの山頂で指揮しました。
この山の前面が最大の激戦地。 家康本陣も目と鼻の先。

笹尾山は右下を北国街道が通っており、軍事上にも重要拠点。




三成が家禄の半分も与えてまでも仕官させたといわれる島左近は、前日の杭瀬川の戦で中村隊を破り、本戦では石田隊の先手として布陣。
黒田・田中らと奮戦後、家康本陣に迫ろうとしたが、銃弾を受けてやむなく柵まで退いた左近は、それでも戦意衰えずに指揮をとり続けたようです。
通説では、黒田勢の鉄砲頭・長菅政が高所に登り五十挺の鉄砲で間断なく射撃してきたため、さすがの島も利を失い、乱戦中の命を落としたと伝わっている。

なお、石田軍のもう一人の勇将・蒲生郷舎も奮戦しています。
蒲生郷舎は、左近とともに、三成隊の先陣として終始右翼から奮戦激闘を続けた。
そのため、黒田・細川・加藤の隊は容易に笹尾山を攻めることができなかった。
しかし、西軍劣勢となるや、織田有楽の勧告に腹を立てた郷舎は、敵中に躍り込んだ。
その後、有楽の家臣に討たれ戦死したとも伝えられている。




島左近の解説板の側から笹尾山に5分程で登ることができます。
「三成陣跡」の石碑が立っている付近は前方が開けていて、戦場の様子が見渡せるようになっています。




布陣図が設置されていて、当時三成が見ていたかもしれない景色を眺められます。

 

↓こちらもどおぞ
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野次馬日記 笹尾山
http://84210137.at.webry.info/201007/article_9.html



  1. 2010/07/13(火) 21:32:25|
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姉川古戦場


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 姉川古戦場                                                        09.06.17
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滋賀県長浜市野村

1570年(元亀元年)4月20日~1570年(元亀元年)6月28日  浅井氏が織田氏よりも朝倉氏を選択したことによって起こった戦い。

戦国時代の元亀元年6月28日(1570年8月9日)に近江国浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町付近)で行われた合戦である。

当時は織田、浅井方ともこの合戦を「野村合戦」と、朝倉方では「三田村合戦」と呼称していた。「姉川の合戦」は徳川家における呼称である。





↓クリック
  


・織田信長は、駿河国の今川氏を撃退し、斎藤氏から美濃国を奪取したのち、上洛を目的として近江に侵攻。

・北近江を治める浅井長政には、妹であるお市の方を娶らせて織田氏との縁戚関係を結んだ。

・信長は、浅井氏からも援軍を得て、共通の敵である南近江の有力大名である六角義賢親子を破り足利義昭を奉じての上洛を果たした。

・1570年(元亀元年)4月20日、織田信長は三万の軍勢を率いて越前朝倉氏の攻略に出陣した。
 朝倉との縁も深かった長政は信長から離反し、織田軍の背後を襲った。
 優位から一転、突如挟撃された信長は危険な状況に陥ったが、「金ヶ崎退き口」と呼ばれる配下たちの決死の退却戦によって、一命を救われている。


信長は、この報復戦のために軍備を整えると北近江へ出陣。

その軍力を恐れた坂田郡の堀秀村などが信長に降った。

浅井氏の本拠である小谷城へ迫る織田軍に対して朝倉義景は一族の朝倉景健を総大将とする兵を派遣した。

6月27日には、信長へも徳川家康軍が参着。

翌28日、姉川河原で織田信長・徳川家康の連合軍28,000と、浅井・朝倉同盟軍18,000が姉川を挟んで戦った。

戦闘は平地戦で、徳川軍は朝倉軍と、織田軍は浅井軍と対峙した。

徳川方の酒井忠次、小笠原長忠の隊が朝倉軍に攻撃したのを皮切りに合戦が開始された。

兵力的には劣る朝倉・浅井両軍であったが、浅井側先鋒磯野員昌率いる浅井家精鋭部隊が織田方先鋒坂井政尚、続いて池田恒興、木下秀吉、柴田勝家の陣を次々に突破し13段の備のうち実に11段までを打ち破る猛攻を見せた。
その激戦ぶりは、「火花を散らし戦ひければ、敵味方の分野は、伊勢をの海士の潜きして息つぎあへぬ風情なり」と伝えられるほどであった。(磯野員昌の活躍については否定説も多くある)

しかし、織田側後詰として横山城の抑えについていた稲葉一鉄らが援軍にかけつけ危機を救う。

徳川軍と交戦していた朝倉軍は数では上回っていた。
しかし、朝倉義景が前線に出なかったため士気に欠け、徳川軍は苦戦しつつも正面突破を強行した本多忠勝や、迂回して朝倉勢を横撃した榊原康政の2将が率いる徳川旗本精鋭隊が加わり、徳川家康の本隊がこれに加わったことで遂に朝倉軍は敗れ去った。

徳川方に参加していた稲葉一鉄、更に横山城を攻めていた氏家卜全、安藤守就らが織田軍の増援として駆けつけ、浅井軍の無防備な側面を突くと浅井軍も右翼から崩れ始めた。
浅井・朝倉両軍は北国往還道へ敗走を余儀なくされ、 追撃により多数の戦死者を出す結果となった。

戦闘は午前5時に始まり午後2時まで続いたと伝えられており、死者は浅井朝倉方で1800人、織田徳川方で800人、負傷者は各方その3倍と推定されている。
合戦場付近の「血原」「血川」という地名は往時の激戦振りを窺わせる。

姉川の合戦における浅井家の被害は甚大で、長政が最も信頼していたと言われている重臣遠藤直経や長政の実弟浅井政之をはじめ、弓削家澄、今村氏直ら浅井家で中心的役割を果たしていた多くの武将が戦死した。


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徳川軍の活躍が書かれている文献はほとんど江戸時代、つまり徳川が天下を獲った後に作られた話であり、徳川軍を過剰に宣伝する必要があったからだと思われる。


  1. 2009/08/29(土) 13:27:55|
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小豆坂

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 小豆坂                    08.11.07 岡崎市
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 小豆坂の戦い(あずきざかのたたかい)               
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・岡崎城に近い三河国額田郡小豆坂(現在の愛知県岡崎市)で行われた戦国時代の合戦。
・三河側の今川氏・松平氏連合と、尾張から侵攻してきた織田氏の間で天文11年(1542年)と17年(1548年)の2度にわたって繰り広げられた。

・発端は松平氏家中の家督相続をめぐる対立だが、これに領地拡大を図る織田氏と今川氏が介入。
・事実上、松平清康の死後勢力の衰えた松平氏に代わる西三河地方の覇権を巡って、織田信秀と今川義元との間で生じた抗争である。

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・岡崎城主として西三河の平野部を支配していた松平氏は、松平清康(徳川家康の祖父)のとき三河全域をほぼ平定したが、天文4年(1535年)の守山崩れによって清康が不慮の死を遂げてから一族間の内紛が起こり、動揺していた。
・やがて清康の嗣子松平広忠が、東の駿河国・遠江国を支配する今川義元の後援を受けて岡崎城に戻り松平氏を相続するものの、依然として勢力は不安定だった。

・尾張の南部に勢力を広げ、戦国大名化を進めていた織田信秀は天文9年(1540年)に松平氏の弱体化に乗じて西三河の松平氏の重要拠点である安祥城(愛知県安城市)を手中にし、松平氏の本拠である岡崎城の目前である矢作川のすぐ西までその勢力を伸ばしていた。

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◎第一次合戦
・織田信秀の西三河平野部への進出。
・松平氏を後援しつつ東三河から西三河へと勢力を伸ばしつつあった今川義元は、西三河から織田氏の勢力を駆逐すべく、天文11年(1542年)8月(一説に12月)、大兵を率いて生田原に軍を進めた。
・一方の織田信秀もこれに対して安祥城を発し、矢作川を渡って対岸の上和田に布陣。
・同月10日(9月19日)、両軍は岡崎城東南の小豆坂において激突した。
・この戦いは、織田方の小豆坂七本槍をはじめとした将士の奮戦によって織田軍の勝利に終わったとされる。
・しかしながら、この第一次合戦については虚構であるという説もある。

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◎第二次合戦
・小豆坂の最初の激突の後、織田氏の尾張・三河国境地帯に対する影響力は高まる。
・天文13年(1544年)には三河国碧海郡の刈谷城(刈谷市)の国人の水野信元が、岡崎城主・松平広忠の妻・於大の方の兄でありながら松平氏と絶縁し、今川氏を離反して織田氏に従った。
・この情勢を受けて、松平広忠は織田家に対抗し今川家との関係をさらに緊密にするため、嫡子・竹千代(のちの徳川家康)を人質として今川氏の本拠・駿府に送ることにした。しかし、天文16年(1547年)、当時6歳の竹千代の身柄は、護送の任にあたった田原城(愛知県田原市)の城主・戸田康光の裏切りによって織田方に引き渡されてしまった。信秀は人質の竹千代を利用して広忠に対し今川を離反して織田の傘下に入るよう説得したものの、広忠は今川氏を頼って織田氏への徹底抗戦の構えを崩すことはなかった。
・同じ頃、織田信秀は嫡男・信長に斎藤道三の娘・濃姫を娶らせて、累年の敵であった美濃の斎藤氏と和睦を推進した。
・これにより北の憂いをなくした信秀は改めて東へと目を向け、奪取した安祥城を橋頭堡として、岡崎城の攻略を企図するに至る。
・こうして天文17年(1548年)3月、信秀は岡崎城を武力で攻略することをめざし、4000余の兵を率いて矢作川を渡河、上和田に着陣した。
・今川義元も松平氏救援のため太原雪斎を大将、朝比奈泰能を副将として出陣させ、同月19日(4月27日)に小豆坂で合戦となった。
・この戦いでは、はじめ今川勢は坂の頂上付近に布陣していたために優勢であったが、織田方の奮戦によって松平隊が崩され、次第に今川方の敗色が濃くなりつつあった。
・ところがこの時、伏兵となっていた今川方の岡部元信が攻勢に転じ、織田本軍に横槍を入れたことで織田勢は総崩れ、再び矢作川を渡って安祥城まで敗走することとなった。

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◎その後
・第二次合戦において今川氏・松平氏連合は勝利を収めはしたが、この合戦のあった天文17年(1548年)に松平広忠が家臣の手によって刺殺されてしまい、松平氏の次期当主である竹千代が織田氏のもとに人質としてある以上、岡崎城は無主の状態になってしまった。
・そこで翌天文18年(1549年)、太原雪斎は人質交換によって竹千代の身柄を今川氏の保護下に奪還することをねらい、11月8日(11月26日)から9日(11月27日)にかけて今川軍と松平軍を率いて安祥城を攻略織田信秀の庶長子・織田信広を捕虜として、竹千代と交換する交渉に成功した。
・今川氏はそのまま竹千代を駿府に引き取って松平氏を完全に保護下に置き、西三河の拠点となる岡崎城に今川氏の派遣した代官を置いた。

・一方、安祥城の失陥により織田氏の三河進出は挫折に終わり、さらに天文20年(1551年)には織田信秀が病没、後を継いだ信長とその弟・信勝(後の織田信行)間で内紛が起こる。
・この結果、尾張・三河国境地帯における織田氏の勢力は動揺し、信秀の死に前後して鳴海城・笠寺城(それぞれ名古屋市緑区・南区)を守る山口氏が今川方に投降し、逆に今川氏の勢力が尾張側に食い込むこととなった。

・やがて、弟との争いを乗り切った織田信長は尾張の統一を進めて力をつけ笠寺を奪還、さらに鳴海城の周辺に砦を築き、鳴海城に篭った今川方の武将・岡部元信を攻囲するに至る。
・これに対し、永禄3年(1560年)に今川義元は大軍をもって尾張へ侵攻した。
・鳴海城をはじめ孤立した今川方の勢力を救援し、国境地帯の争いを劣勢から巻き返そうとした。
・この戦役において勃発した合戦がすなわち桶狭間の戦いであり、主将義元を失った今川軍は三河から急速に勢力を後退させ、かわって松平元康(徳川家康)に率いられた松平氏が復興することになる。
・まもなく松平氏は織田氏と同盟(清洲同盟)を結んだため、長らく続いた尾張・三河国境地帯の争いは沈静化していった。


http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=34.92711387&lon=137.18343404&sc=5&mode=map&pointer=on&home=on&hlat=34.95155889&hlon=137.17585194


  1. 2009/02/06(金) 16:59:52|
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妻女山

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 妻女山 (さいじょさん)             08.07.09
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・長野県長野市松代町と千曲市土口が境を接する山。
http://webrymap.biglobe.ne.jp/?lat=36.56101440649209&lng=138.17161560058594&zm=14&tp=0&gs=all&rat=0&sp=1&srt=0

・武田信玄が築いた海津城や川中島平を見下ろすことができる位置にあり、第4次川中島の戦いにおいて上杉謙信の軍が陣を張ったとされることで知られる。

・上杉謙信はこの山上から海津城に立ちのぼる夥しい炊煙を見て武田方の攻撃を察知した。
・そして秘かに山を下り夜陰に紛れて雨宮の渡しから千曲川を渡河して敵の裏をかいたと伝えられる。

・「さいじょざん」の表記は「妻女山」「西条山」「斎場山」「祭場山」がある。
・どれも古来から川中島合戦を語る時に用いられて来た。
・しかし「西条山」に関しては清野氏配下の西条氏(にしじょうし)の勢力地域の山であって、海津城将が上杉軍来襲を甲斐に狼煙で急報した烽火台の山を言うのが正しいとされているので、全く別の山ということになる。

・「妻女山」は上杉軍将兵が望郷の念を抱いて、遠く離れた郷里に残して来た「妻女を偲んで涙した」と江戸時代になってから芝居や浄瑠璃、講談等で語られて広まったことによるとされている。

・「斎場山」と周辺には多くの古墳が存在し、古代から死者を弔い祭る山とされ「斎場」もしくは「祭場」と表記するのが正しいとされる。 斎場山は戸神山脈(もしくは鞍骨山脈)にある上部の鞍骨城と、その下部の天城城の二つの山城を北に下った尾根先で東西に伸びる山脈を形成している。
・その東端は赤坂で西端が笹崎、中央部の主峰が謙信布陣と伝えられる斎場山である。
・しかし斎場山や薬師山と表記されている地図もあれば、「赤坂」を「妻女山」と表記して、この最高地の「斎場山」を無名にしている地図もある。

・この主峰を「妻女山」のままが良しとする説もある。それによれば「斎場山」山頂の古墳は、麓にある「会津比売神社」の祭神「会津比売命」の墓と伝説され、地元では「天上」もしくは「御天上」とも言うのだという。
・「会津比売命」は初代信濃の国造である「建五月建命(伝説では森将軍塚の被葬者)」の妻であるので「妻女」の山が正しいとするものである。

・なお現在「妻女山」とされて展望台や甲越合戦の解説版が設置されている所は、正しくは「赤坂」又は「赤坂山」であって、謙信配下の殿(しんがり)部隊甘粕近江守景持が陣を敷いた場所とされる。

・上杉謙信の妻女山布陣は定説となっているが「史実にはない」と否定するむきもある。

・森長可が本能寺の変で織田信長の後ろ盾を失って撤退後、徳川、北条らとの三つ巴の草刈場と化した川中島に、北条軍の北上に備えた上杉景勝が妻女山に布陣した史実との「混同」だとするのがそれである。













 

  1. 2008/10/23(木) 23:35:29|
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