仙人奇行5

つれづれの史跡散歩

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八木家


新選組の屯所として使われ新撰組発祥の地の郷士八木家の邸宅。

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 八木邸                11.03.24
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京都市中京区壬生梛ノ宮町24     TEL: 075-841―0751


拝観時間:9:00-17:00(
拝観料 :大人:1,000円(抹茶、屯所餅付き)

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・八木家は但馬国で八木安高により起こった。
・源頼朝より今の家紋(三つ木瓜)を拝領したと伝わる。

・室町時代に京の壬生に移し、江戸の浪士組の宿となり、新選組の屯所としても使われた。

・幕末の文久3年(1863年)春、14代将軍家茂上洛にあたりその警護の為に上洛した浪士達は、ここ洛西壬生村に宿所を求めましたが、間もなく江戸に呼び戻されることになりました。
・しかしその中で当八木家を宿所としていた芹澤鴨、近藤勇、土方歳三、沖田総司、山南敬助、新見錦、原田佐之助、藤堂平助、野口健司、井上源三郎、平山五郎、平間重助、永倉新八の13名は浪士隊から分かれて京に残り、文久3年3月16日八木家右門柱に、松平肥後守御領新選組宿という新しい表札を掲げ、ここに新選組が誕生した。

・座敷は芹澤鴨暗殺の場で、文久3年9月18日どしゃ降りの深夜芹澤鴨、平山五郎ら4人が斬殺された。
・近藤が実権をにぎってから隊規も厳しくなり、又池田屋事件など新選組の最盛期を築きましたが、慶應元年(1865年)夏、壬生が手狭になってきたのを理由に西本願寺の太鼓番屋に屯所を移した。

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  1. 2011/05/24(火) 21:09:25|
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江川家住宅


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 江川家住宅          11.02.10
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伊豆の国市韮山韮山 1

開館時間 9:00~16:30(水曜日は15:30まで) 休館日 7~8月の水曜日および年末、元旦
大人300円


初代は大和源氏の祖とされる源頼親

保元の乱(1156)に参戦して敗れ、従者13人と共にこの地に逃れて居を定めたと伝えられる

徳川時代初期より幕末に居たるまで代々徳川幕府の世襲代官を勤めた

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幕末の江川英龍(担庵)は体制側にありながら革新思想を持ち、農兵の組織、大砲の鋳造、品川台場築造の計画等を進めたことで知られている。

現当主は英武の孫で41代です

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重要文化財に指定されているこの住居は、1600年頃に建てられたもので、部分的には、それより古い中世の建築部材も使われている

主屋は昭和33年(1958)に国の重要文化財の指定を受けた

150坪ほどある主屋にある50坪の土間です

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屋根裏は、たくさんの桁・ 貫で組まれ、くぎや、ねじ類を使わない柔軟工法が耐震構造となっている

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パンを焼いた釜だそうです

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敷地の中には米蔵がいくつかある

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裏門です

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  1. 2011/05/03(火) 00:08:00|
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落柿舎


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 落柿舎 (らくししゃ)
http://www.rakushisha.jp/                            10.01.11
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京都市右京区嵯峨小倉山緋明神町20        075-881-1953

入園料 200円(学生団体100円 要事前予約)
入園時間 9時~17時(1月、2月は10時~16時)
休日 12/31、1/1

 
元禄の俳人で芭蕉の門人、向井去来の遺跡


去来は蕉門第一の俳士にて、芭蕉の最も信頼した高弟であった
去来が落柿舎を営んだのは、 貞享四年(1687)の以前で、芭蕉が初めて訪れたのは元禄二年(1689)、 併(あわ)せて三度来庵す
芭蕉は元禄四年には四月十八日から五月四日迄滞留し、その間に『嵯峨日記』を誌した

現在の落柿舎は、蝶夢門下の井上重厚が、明和七年(1770)に再建したもので去来の墓は現在地にあった





去来の『落柿舎記』には、庭に柿の木四十本あり、その柿の実が一夜のうちに殆どおちつくした。
それが落柿舎の名の由来とかかれている。



落柿舎の入口には常に蓑と笠がかけてある
これは本来庵主の在庵と不在を示すもので、ここに蓑笠がかけてあったら在庵、なければ外出中というしるしである

 

「五月雨や色紙へぎたる壁の跡」
 芭蕉が『嵯峨日記(さがにっき)』の最尾にしるした句。





「十三畳半の落柿舎冬支度」
 工藤芝蘭子は落柿舎十一世庵主。
 永井瓢齋の志を継ぎ、堂島の相場師から一転、私財を投げ打って戦後の落柿舎再建に尽力





  1. 2010/01/30(土) 15:15:08|
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石田三成生誕地


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 石田三成 出生屋敷跡 (石田会館)                 09.06.17
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滋賀県長浜市石田町

石田三成は永禄3年にこの石田町に誕生

その当時の石田家の屋敷はこの附近一帯にわたり約一丁四反歩位あったものと思われる

現在地は屋敷の南端に当たりここから北へ現在のバス停附近までが屋敷であったよう

この地域の小字名は「治部」と称し俗称「ごいで」とも言われる

隣接地に「的場」「御畑みたけ」「堀端」などの小字名から当時の豪族らしい構えが伺われる

左手の池は「堀端」または「治部池」と呼ばれ石田屋敷の堀の一部遺構と伝えられる

  


 

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  石田三成
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生没 永禄3年(1560年) - 慶長5年10月1日(1600年11月6日)
 
改名 佐吉(幼名)、三也、三成   戒名 江東院正軸因公大禅定門

墓所 大徳寺三玄院

官位 従五位下治部少輔、従四位下

主君 豊臣秀吉→秀頼


 
父:石田正継、母:岩田氏

兄弟 弥次郎?、正澄、三成、女子(福原長堯室)

妻 正室:皎月院(宇多頼忠の娘)

子 重家、重成、荘厳院(津軽信牧室)  娘(山田氏室)、娘(岡重政室)

 

・永禄3年(1560年)、石田正継の次男(三男とも)として近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)で生まれる。

・石田村は古くは石田郷といって石田氏は郷名を苗字とした土豪であったとされている。

・羽柴秀吉が織田信長に仕えて近江長浜城(長浜市)主となった天正2年(1574年)頃から秀吉の小姓として仕える(天正5年(1577年)説もある)。

・秀吉が信長の命令で中国攻めの総司令官として中国征伐に赴いたとき、これに従軍した。

・天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変により横死し、次の天下人として秀吉が台頭すると、三成も秀吉の側近として次第に台頭してゆく。

・天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いに従軍。柴田勝家軍の動向を探る偵察行動を担当、また先駈衆として一番槍の功名をあげたと「一柳家記」にある。

・天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いに従軍。同年、近江国蒲生郡の検地奉行を務めた。

・天正13年(1585年)7月11日、秀吉の関白就任に伴い、従五位下治部少輔に叙任される。また、同年末に秀吉から近江水口4万石の城主に封じられた。

・天正14年(1586年)1月、当時智勇兼備の名将として名高かった島左近を4万石のうちの半分の2万石の知行を与えて召抱えたといわれる。
 秀吉はこれに驚愕、そして賞賛し、島左近に三成への忠誠を促し、菊桐紋入りの羽織を与えた。
 同年、越後の上杉景勝が秀吉に臣従を誓うために上洛してきたとき、これを斡旋した。また、秀吉から堺奉行に任じられる。

・天正15年(1587年)、九州征伐に参陣するが、武功を挙げたわけではなく後方の兵糧・武具などの輜重を担当していたと言われている。
 ただし、先年の四国征伐と同様に九州征伐が比較的短期間で終わったことは、三成という有能な行政官僚が輜重を担当していたからだとも言われている。
 九州征伐後、博多奉行となり博多復興に従事した。

・天正16年(1588年)、薩摩の島津義久の秀吉との謁見を斡旋する。

・天正17年(1589年)、美濃国を検地する。

・天正18年(1590年)の小田原征伐に参陣。秀吉から後北条氏の支城の館林城、忍城攻撃を命じられる。
 忍城攻めでは元荒川の水を城周囲に引き込む水攻めが行われ、その際の遺構が周囲に現存している。
 関東各地の後北条氏のほとんどの支城は本城である小田原城よりも先に陥落したが、忍城では小田原開城後の7月初旬まで戦闘が続いた。

・文禄元年(1592年)、朝鮮出兵(文禄の役)が始まると朝鮮に渡海し、増田長盛、大谷吉継とともに朝鮮出兵の総奉行を務める。

・文禄2年(1593年)、碧蹄館の戦い、幸州山城の戦いに参加。その後明軍の講和使謝用梓・徐一貫を伴って肥前・名護屋に戻るなど、明との講和交渉に積極的役割を果たしている。しかし、秀吉と現地の連絡役という立場の行動は、豊臣家中で福島正則ら武断派の反発を招いた。

・文禄3年(1594年)、島津氏・佐竹氏の領国を奉行として検地する。

・文禄4年(1595年)、秀吉の甥・豊臣秀次を謀反の嫌疑により糾問する(秀次事件)。秀次の死後、その旧領のうち近江7万石が三成の代官地になる。
 同年に近江佐和山19万4000石の所領を秀吉から与えられた。

・慶長元年(1596年)、佐和山領内に十三ヶ条掟書、九ヶ条掟書を出す。
 明の講和使節を接待。
 同年、京都奉行に任じられ、秀吉の命令でキリシタン弾圧を命じられている。ただし、三成はこのときに捕らえるキリシタンの数を極力減らしたり、秀吉の怒りをなだめて信徒たちが処刑されないように奔走するなどの情誼を見せたという(日本二十六聖人)。

・慶長2年(1597年)、慶長の役が始まると再び明・朝鮮との講和交渉に奔走するが不調に終わった。

・慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉が死去すると、朝鮮に在陣していた諸大名の撤兵に尽力したと言われている。

・三成は秀吉死後の直後、慶長3年8月19日に家康を暗殺しようとしている。
 家康は覇権奪取のため、三成と対立関係にあった福島正則や加藤清正、黒田長政らと、豊臣氏に無断で次々と縁戚関係を結んでゆく。

・慶長4年(1599年)1月、三成は家康の無断婚姻を「秀吉が生前の文禄4年(1595年)に制定した無許可縁組禁止の法に違反する」として、前田利家らと諮り、家康に問罪使を派遣する。
 家康も豊臣政権の中で孤立する不利を悟って、2月2日に利家・三成らと誓紙を交わして和睦した。
 しかし、閏3月3日に家康と互角の勢力を持っていた大老・前田利家が病死する。
 その直後、三成と対立関係にあった武断派の加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明の7将が、三成の大坂屋敷を襲撃した。
 しかし三成は事前に佐竹義宣の助力を得て大坂から脱出し、伏見城内に逃れていた。

・この後7将と三成は伏見で睨みあう状況となるが、仲裁に乗り出した家康により和談が成立し、三成は五奉行からの退隠を承諾した。
 3月10日、三成は家康の次男・結城秀康に守られて、佐和山城に帰城した

・利家の死去・三成の蟄居により、家康の専横は再び活発になり、一旦白紙にしていた無断婚姻や秀吉の遺命で禁止されていた所領配分なども実施した。

・慶長5年(1600年)7月、三成は家康を排除すべく、上杉景勝・直江兼続らと密かに挙兵の計画を図る。
 その後、上杉勢が公然と家康に対して叛旗を翻し、家康は諸大名を従えて会津征伐に赴いた。
 これを東西から家康を挟撃する好機として挙兵を決意した三成は、大谷吉継を味方に引き込もうとする。
 吉継は、家康と対立することは無謀であるとして反対したが、三成との友誼などもあって承諾した。

・7月12日、兄・正澄を奉行として近江愛知川に関所を設置し、家康に従って会津征伐に向かう後発の西国大名、鍋島勝茂や前田茂勝らの東下を阻止し、強引に自陣営(西軍)に与させた。

・7月13日、三成は諸大名の妻子を人質として大坂城内に入れるため軍勢を送り込んだ。しかし加藤清正の妻をはじめとする一部には脱出され、さらに細川忠興の正室・玉子には人質となることを拒絶され屋敷に火を放って死を選ぶという壮烈な最期を見せられて、人質作戦は中止された。

・7月17日、毛利輝元を西軍の総大将として大坂城に入城させ、同時に前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行連署からなる家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状を諸大名に公布した。

・7月18日、西軍は家康の重臣・鳥居元忠が守る伏見城を攻めた。しかし伏見城は堅固で鳥居軍の抵抗は激しく、容易に陥落しない。そこで三成は、鳥居の配下に甲賀衆がいるのを見て、長束正家と共に甲賀衆の家族を人質にとって脅迫する。

・8月1日、甲賀衆は三成の要求に従って城門を内側から開けて裏切り、伏見城は陥落した。

・8月2日、三成は伏見城陥落を諸大名に伝えるべく、毛利輝元や宇喜多秀家、さらに自らも連署して全国に公布する。

・8月からは伊勢方面の平定に務めたが、家康ら東軍の反転西上が予想以上に早かったため、三成は関ヶ原で野戦を挑むことを決める。

・9月15日、東軍と西軍による天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いが始まった。
 当初は西軍優勢であり、石田隊は6900人であったが、細川忠興・黒田長政・加藤嘉明・田中吉政ら兵力では倍以上の敵に攻められたものの、島左近・蒲生頼郷・舞兵庫らの奮戦もあって持ちこたえた。
 しかし西軍全体では戦意の低い部隊が多く、次第に不利となり、最終的には小早川秀秋や脇坂安治らの裏切りによって西軍は総崩れとなり、三成は戦場から逃走して伊吹山に逃れた。

 その後、伊吹山の東にある相川山を越えて春日村に逃れた。
 このとき、三成は極度の空腹から沢の水を飲み、生米を食べたため、下痢を起こしたと言われている。
 その後、春日村から新穂峠を迂回して姉川に出た三成は、曲谷を出て七廻り峠から草野谷に入った。
 そして、小谷山の谷口から高時川の上流に出、古橋に逃れた。

・9月18日に東軍の攻撃を受けて三成の居城・佐和山城は落城し、三成の父・正継をはじめとする石田一族の多くは討死した。

・9月21日、家康の命令を受けて三成を捜索していた田中吉政の追捕隊に捕縛された。

・9月22日、大津城に護送されて城の門前で生き曝しにされ、その後家康と会見。

・9月27日、大坂に護送される

・9月28日には小西行長、安国寺恵瓊らと共に大坂・堺を罪人として引き回される。

・9月29日、京都に護送され、奥平信昌(京都所司代)の監視下に置かれた。

・10月1日、家康の命により六条河原で斬首された。
 享年41。首は三条河原に晒された後、生前親交のあった春屋宗園・沢庵宗彭に引き取られ京都大徳寺の三玄院に葬られた。


辞世の句:筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり



  1. 2009/08/28(金) 18:17:55|
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近江商人屋敷・外村繁邸

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 近江商人屋敷・外村繁邸                  09.02.18
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所在地/五個荘金堂町631

4代外村宇兵衛の妹みわに婿養子吉太郎を迎えて分家したのが外村繁家の始まり。

吉太郎は宇兵衛本家の京都店の勤めから、明治40年に独立、東京日本橋と高田馬場に呉服木綿問屋を開き活躍。

当屋敷も五個荘商人の本宅として、家族や番頭・女中が生活した大きな主屋や蔵があり、また書院や広い庭は来客の接待場として利用されていた。

滋賀県を代表する純文学作家、外村繁はこの家の三男として明治35年に生まれた。

一時家業を継ぐが、昭和8年弟に託し、その後昭和13年阿佐ヶ谷に移り住み作家活動を精力的に行う。

近江商人をテーマにした「筏」三部作は高い評価を受けている。

  1. 2009/05/03(日) 11:37:15|
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