神功皇后陵
◎五社神(ごさし)古墳 (神功皇后陵)
神功皇后を埋葬したとされる五社神古墳
【陵名】神功皇后 狭城盾列池上陵(さきのたたなみのいけのうえのみささぎ)
【墳形】前方後円墳
【規模】主全長273m、後円部径196m、後円部高さ23m、前方部幅168m、前方部高さ27m
【備考】周囲に濠を巡らす
【築造時期】4世紀末〜5世紀初め
【所在地】奈良市山陵町字宮ノ谷
・宮内庁では、奈良市にある五社神古墳を神功皇后陵(狭城楯列池上陵)としている。
・神功皇后の陵墓については、古事記では「御陵在沙紀之盾列池上陵(御陵は沙紀の盾列池上陵(さきのたたなみのいけがみのみささぎ)に在り)」、日本書紀では「葬狭城盾列陵(狭城盾列陵(さきのたたなみのみささぎ)に葬る)」と記している。
・狭城盾列陵とは佐紀盾列古墳群のことである。承和10年(843年)、盾列陵で奇異があり、調査の結果、神功皇后陵と成務天皇陵を混同していたことがわかったという記事が『続日本後紀』にある。
・後に、「御陵山」と呼ばれていた佐紀陵山古墳(現 日葉酢媛陵)が神功皇后陵とみなされるようになり、神功皇后の神話での事績から安産祈願に霊験ありとして多くの人が参拝していた。
・その後、西大寺で「京北班田図」が発見され、これにより神功皇后陵が現在地であることが判明し、文久3年(1863年)、五社神古墳が神功皇后陵に治定された。 


◎神功皇后(じんぐうこうごう、成務40年(170年) - 神功69年4月17日(269年6月3日))
・古墳時代の皇族(王族)で、仲哀天皇の皇后。
・気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后。 父は開化天皇玄孫・息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)で、母は天日矛裔・葛城高?媛(かずらきのたかぬかひめ)。
・彦坐王の4世孫、応神天皇の母。
●事跡
・日本書紀などによれば、201年から269年まで政事を執りおこなった。
・夫の仲哀天皇の急死(200年)後、住吉大神の神託により、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま海を渡って朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻め、新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという(三韓征伐)。
・渡海の際は、お腹に月延石や鎮懐石と呼ばれる石をあててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせたとされる。
・月延石は三つあったとされ、それぞれ長崎県壱岐市及び京都市の月読神社と福岡県二丈町の鎮懐石八幡宮に奉納されたと言われている。
・その帰路、筑紫の宇美で応神天皇を出産し、志免でお紙目を代えたと伝えられている。
・他にも壱岐市の湯ノ本温泉で産湯をつかわせたなど、九州北部に数々の伝承が残っており、九州北部に縁の深い人物であったと推測される。
・神功皇后が三韓征伐の後、畿内に帰るとき、自分の皇子(応神天皇)には異母兄にあたる香坂皇子、忍熊皇子が畿内にて反乱を起こして戦いを挑んだが、神功皇后軍は武内宿禰や武振熊命の働きによりこれを平定したという。
・この時代は、長期間にわたって天皇が空位のままだったため、明治時代以前は神功皇后を天皇(皇后の臨朝)とみなし、15代の帝と数えられていたが、1926年(大正15年)10月の詔書により、歴代天皇から外された。
・明治から太平洋戦争(大東亜戦争)敗戦までは、研究の場では江戸時代より様々な論考があったにもかかわらず、学校教育において実在の人物として教えるよう指導されていた。
・現在では実在説と非実在説が並存している。
・日本書紀において 巻九に神功皇后摂政「66年 是年 晋武帝泰初二年晉起居注云 武帝泰初(泰始)二年十月 倭女王遣重貢獻」と中国と倭の女王の記述が引用されており、収録するにあたってヤマト王権と「卑彌呼」を関連づけさせる為に伝承が作り上げられたという説がある。
・直木孝次郎は斉明天皇と持統天皇がモデルではないかとの説を唱えている。
・卑弥呼と同じような巫女王とする見方もある。
・住吉三神とともに住吉大神の1柱として、また応神天皇とともに八幡三神の1柱として信仰されるようになる。
・大分県の宇佐神宮、大阪府大阪市の住吉大社をはじめ、福岡県福津市の宮地嶽神社、福岡県大川市の風浪宮など、いくつかの神社の祭神となっている。
・所縁ある福岡市の香椎宮や筥崎宮、福岡県宇美町の宇美八幡宮、壱岐市の聖母宮でも祀られている。
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産経ニュース
2008.2.22 神功皇后陵調査 陵墓初の学術調査実現
奈良市山陵(みささぎ)町の神功(じんぐう)皇后陵=五社神(ごさし)古墳=で22日、日本考古学協会など16学会の16人による立ち入り調査が行われた。
宮内庁が管理する陵墓で認められた初の学術調査で、研究者らは、古墳時代のものとされる同皇后陵の形状などをじかに観察。その結果、築造当時のものとみられる埴輪(はにわ)の列も確認され、今後の研究に向けた貴重な基礎資料となった。
神功皇后陵は、全長約270メートルの巨大な前方後円墳で、墳丘は前方部が3段、後円部は4段に分かれている。宮内庁書陵部による整備工事に伴う過去の調査で、葺石(ふきいし)や埴輪の破片などが確認されていた。
調査は約2時間半にわたって行われ、1段目の平らな部分までの立ち入りが認められた。研究者らは宮内庁職員の案内で、前方部南西の堀の堤を渡って墳丘内に立ち入り、森林に包まれた墳丘内を歩きながら形状や埴輪の有無などをじっくりと観察した。
その結果、前方部東側で数点の埴輪が並んでいるのを確認。墳丘の裾野に近い部分で発見されたことから、築造時の同皇后陵が現状より大きかった可能性もあるという。
調査後、日本考古学協会の西谷正会長(九州大名誉教授)は「今まで入ることができなかった陵墓に学術調査として立ち入り、第一歩を実現できた。基礎資料ができ、大きな成果となった」。宮内庁書陵部の福尾正彦・陵墓調査官は「陵墓の尊厳と静安に支障のない程度に学術調査は認める方針で、今後も申請があれば適切に判断する」と話した。

