治水神社

◎治水神社 (ちすいじんじゃ)

岐阜県海津市海津町油島

創建 1938年(昭和13年)
水難避け、家内安全、交通安全にご利益があるという。


祭神
薩摩藩家老平田靱負(ひらたゆきえ)。及び薩摩藩士84名。
平田靱負は、宝暦4〜5年(1754年〜1755年)、薩摩藩が幕府の命で行なった、木曽三川分流の治水工事(宝暦治水)の責任者であった。
治水工事が終えると、莫大な工事費用と数多くの藩士が亡くなった事の責任を取り自害している。

歴史
1938年(昭和13年)建立。
薩摩藩士を祭る為に、1927年(昭和2年)起工。地元の人々の浄財で建立される。

毎年4月25日と10月25日には、平田靱負と薩摩藩士の功績と供養の為の慰霊祭が行なわれる。
境内には、治水観音堂があり、治水観音大菩薩と薩摩藩士の位牌が祭られている。
境内の幕などは、島津家の家紋“丸に十の字(まるにじゅうのじ)”となっている。
近くには木曽三川公園(木曽三川公園センター)がある。







◎千本松原(せんぼんまつばら)

岐阜県海津市海津町油島にある松が植えられた堤防。

木曽川・長良川・揖斐川の三川分流工事に伴い、分流堤に約千本の松が植えられた。

油島千本松締切堤ともいい、1940年(昭和15年)、国の史跡に指定されている。

江戸時代(宝暦年間1753年12月 - 1755年5月)に幕府の命令で薩摩藩が工事に当たった。

死傷者が多数出た難工事で、このとき工事を監督した薩摩藩士平田靱負(ひらたゆきえ:平田靭負?)も完工後切腹した(宝暦治水事件)。

松の木は当時九州から取り寄せた日向松とされる。河口側の南端に薩摩藩士の慰霊と宝暦治水の偉業を記念する宝暦治水碑がある。

上流側北端に1937年(昭和12年)に平田靱負正輔を祭神として、治水神社が祀られた。宝暦治水の物語は、「千本松原」(岸武雄著)に小説(児童文学)としてまとめられ、「せんぼんまつばら 川と生きる少年たち」としてアニメ映画化もされている。

海津市で宝暦治水史蹟保存会(会長・平野義明(旧海津町長))を運営している。

薩摩藩士の業績を讃え、1971年(昭和46年)岐阜・鹿児島姉妹県盟約を締結、1991年(平成3年)盟約20周年に、海津市の南濃関ヶ原線にカイコウズ(鹿児島県の木)を植樹、薩摩カイコウズ街道と名付けられた。

近年松食い虫による被害が増加、その名に反して松の本数が1,000本を下回った。

このため、2003年(平成15年)より鹿児島県の林業関係者らで作る松原再生支援実行委員会が支援を行い、2006年(平成18年)まで4年間にわたり松食い虫に強いクロマツ品種スーパーグリンさつまの苗のべ200本と防除用薬剤代などを宝暦治水史蹟保存会に寄贈し、岐阜・鹿児島両県の小学生と共に記念植樹を行った。




◎宝暦治水事件(ほうれきちすいじけん、ほうりゃくちすいじけん)

江戸時代中期幕命による木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の治水事業(宝暦治水)に絡み、工事中薩摩藩士51名自害、33名が病死し、工事完了後に工事を担当した薩摩藩士が引責自殺した事件。

この事件は、関ヶ原と共に、幕末の薩摩藩による討幕運動の大きな伏線となる。




■宝暦治水

宝暦治水とは、江戸時代の宝暦年間(1754年(宝暦4年)2月から1755年(宝暦5年)5月)、幕命により薩摩藩が行った治水工事。

濃尾平野の治水対策で、木曽川、長良川、揖斐川の分流工事。三川分流治水ともいう。

木曽川・長良川・揖斐川の3河川は濃尾平野を貫流し、下流の川底が高いことに加え、三川が複雑に合流・分流を繰り返す地形であることからしばしば洪水を引き起こしていた。

1753年(宝暦3年)12月28日、正式に第九代将軍徳川家重は薩摩藩主島津重年に御手伝普請という形で川普請工事を命じ、翌年1754年(宝暦4年)1月16日薩摩藩は家老の平田靱負に総奉行、大目付伊集院十蔵を副奉行に任命し、藩士を現地に派遣して工事にあたらせた。

幕府が工事を命じた目的は、薩摩藩の財政弱体化であった。


■事件概要

当時既に66万両もの借入金があり財政が逼迫していた薩摩藩では、工事普請の知らせを受けて幕府のあからさまな嫌がらせに「一戦交えるべき」との強硬論が続出した。

財政担当家老であった平田靱負は強硬論を抑え薩摩藩は普請請書を1754年(宝暦4年)1月21日幕府へ送る。

同年1月29日には総奉行平田靱負、1月30日には副奉行伊集院十蔵がそれぞれ藩士を率いて薩摩を出発。

工事に従事した薩摩藩士は追加派遣された人数も含め総勢947名であった。

同年2月16日に大坂に到着した平田は、その後も大坂に残り工事に対する金策を行う。砂糖を担保に7万両を借入し同年閏2月9日美濃に入る。

工事は同年2月27日に鍬入れ式を行い着工した。


■最初の犠牲者

1754年(宝暦4年)4月14日永吉惣兵衛、音方貞淵の両名が自害した。

両名が管理していた現場で3度にわたり堤が破壊され、その指揮を執っていたのが幕府の役人であることがわかり、その抗議の自害であった。

以後合わせて51名が自害を図ったが平田は幕府への抗議と疑われることを恐れたのと、割腹がお家断絶の可能性もあったことから自害である旨は届けなかった。

また、この工事中には、本来監視役であるはずの徳川家からも、薩摩藩に同情して抗議の切腹を行うものが2名出ている。

幕府は工事への嫌がらせだけでなく、食事も重労働にも拘らず一汁一菜と規制しさらに蓑、草履までも安価で売らぬよう地元農民に指示した。


■赤痢

1754年(宝暦4年)8月には薩摩工事方に赤痢が流行し、粗末な食事と過酷な労働で体力が弱っていた者が多く、157名が病に倒れ33名が病死した。

1755年(宝暦5年)5月22日工事が完了し幕府の見方を終え、同年5月24日に総奉行平田靱負はその旨を書面にして国許に報告する。

その翌日5月25日早朝美濃大牧の本小屋で割腹自殺した。辞世の句は 「住み馴れし里も今更名残にて、立ちぞわずらう美濃の大牧」

最終的に要した費用は約40万両(現在の金額にして300億円以上と推定)。大坂の商人からは22万298両を借入。


■その後

この工事による治水効果は3河川の下流地域300か村に及んだとされる。

しかしながら皮肉にも、堤完成後には洪水の回数がむしろ増加した。これは、完成した堤が川底への土砂の堆積を促したためと指摘されている。

近代土木技術を用いた本格的な治水工事は、ヨハニス・デ・レーケの来岐まで待つこととなる(明治改修)。

1900年(明治33年)三川分流工事完成時に宝暦治水碑が千本松原南端に建てられている。


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