平塚為広
平塚 為広 (ひらつか ためひろ、?- 慶長5年9月15日(1600年10月21日))
戦国時代から安土桃山時代の武将。
官位は従五位下、因幡守。
大力で、薙刀の名手といわれる。
相模国平塚の地頭三浦為高(為重)の7代目の子孫。
幼名は孫九郎。
はじめ明智光秀に仕え、本能寺の変では織田信長襲撃に参加していたとも言われている。
後に豊臣秀吉の家臣(馬廻)として仕え、小牧・長久手の戦いや小田原征伐に参加して武功を挙げた。
天正20年(1592年)からの朝鮮出兵にも参加し、肥前名護屋城に駐屯した。
文禄4年(1595年)7月、秀吉より長年の忠義を認められて8000石を与えられた。
慶長3年(1598年)、秀吉の醍醐の花見にも護衛として参加している。
秀吉没後は豊臣秀頼に仕え、慶長5年(1600年)には美濃垂井に1万2000石の所領を与えられた。
同年の関ヶ原の戦い直前、徳川家康に対して挙兵しようとする石田三成を大谷吉継と共に佐和山城において諫言したが、聞き入れられず、吉継と共に西軍に与することとなった。
そして伏見城攻めで軍功を挙げている。
のちに大谷吉継に属し北国口の防備に加わり、8月4日には東軍の前田利長に備える為に北庄城に入る。
8月下旬、吉継とともに美濃に南進、9月3日に関ヶ原の西南の山中村に着陣。
9月14日、大谷吉継より戸田勝成と共に小早川秀秋の動向を探り、秀秋に裏切りの気配があれば暗殺するように密命を受けていたが、秀秋に事前に暗殺計画を察知されたため、かなわなかったと言われている。
9月15日の関ヶ原本戦では大谷吉継に属して前備え五百人を率い藤川の台に布陣、予想通り裏切った秀秋の部隊相手に奮戦し数度撃退したが、脇坂安治らの裏切りや藤堂隊、京極隊の攻撃に持ちこたえることができず、壊滅状態になった。
しかし、なお為広は孤軍奮闘したがついに小川祐忠の家臣小川勘助の隊下の樫井太兵衛に討たれた。
その際、大谷吉継に討ち取った敵将の首と共に辞世の句(「名のために棄つる命は惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば」)を送っている。
この後、吉継は自刃している。
子息の庄兵衛も討死したという。
また、弟の怪力で有名な平塚越中守は、生け捕られ、徳川家康の前に引き立てられたが、放免されている。
子孫
嫡男左馬助は大坂夏の陣に参加、若江の戦いにて戦死している。
弟の平塚越中守が徳川家康の誘いを断り三成に仕えていたといわれる。
江戸後期には将軍徳川家斉の側室於万の方(旗本平塚伊賀守為喜の娘)を輩出、女性運動家の平塚らいてうは彼の末裔といわれている。
戦国時代から安土桃山時代の武将。
官位は従五位下、因幡守。
大力で、薙刀の名手といわれる。
相模国平塚の地頭三浦為高(為重)の7代目の子孫。
幼名は孫九郎。
はじめ明智光秀に仕え、本能寺の変では織田信長襲撃に参加していたとも言われている。
後に豊臣秀吉の家臣(馬廻)として仕え、小牧・長久手の戦いや小田原征伐に参加して武功を挙げた。
天正20年(1592年)からの朝鮮出兵にも参加し、肥前名護屋城に駐屯した。
文禄4年(1595年)7月、秀吉より長年の忠義を認められて8000石を与えられた。
慶長3年(1598年)、秀吉の醍醐の花見にも護衛として参加している。
秀吉没後は豊臣秀頼に仕え、慶長5年(1600年)には美濃垂井に1万2000石の所領を与えられた。
同年の関ヶ原の戦い直前、徳川家康に対して挙兵しようとする石田三成を大谷吉継と共に佐和山城において諫言したが、聞き入れられず、吉継と共に西軍に与することとなった。
そして伏見城攻めで軍功を挙げている。
のちに大谷吉継に属し北国口の防備に加わり、8月4日には東軍の前田利長に備える為に北庄城に入る。
8月下旬、吉継とともに美濃に南進、9月3日に関ヶ原の西南の山中村に着陣。
9月14日、大谷吉継より戸田勝成と共に小早川秀秋の動向を探り、秀秋に裏切りの気配があれば暗殺するように密命を受けていたが、秀秋に事前に暗殺計画を察知されたため、かなわなかったと言われている。
9月15日の関ヶ原本戦では大谷吉継に属して前備え五百人を率い藤川の台に布陣、予想通り裏切った秀秋の部隊相手に奮戦し数度撃退したが、脇坂安治らの裏切りや藤堂隊、京極隊の攻撃に持ちこたえることができず、壊滅状態になった。
しかし、なお為広は孤軍奮闘したがついに小川祐忠の家臣小川勘助の隊下の樫井太兵衛に討たれた。
その際、大谷吉継に討ち取った敵将の首と共に辞世の句(「名のために棄つる命は惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば」)を送っている。
この後、吉継は自刃している。
子息の庄兵衛も討死したという。
また、弟の怪力で有名な平塚越中守は、生け捕られ、徳川家康の前に引き立てられたが、放免されている。
子孫
嫡男左馬助は大坂夏の陣に参加、若江の戦いにて戦死している。
弟の平塚越中守が徳川家康の誘いを断り三成に仕えていたといわれる。
江戸後期には将軍徳川家斉の側室於万の方(旗本平塚伊賀守為喜の娘)を輩出、女性運動家の平塚らいてうは彼の末裔といわれている。
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