大谷吉継・湯浅五助
大谷吉継 (おおたに よしつぐ)
生誕 永禄2年(1559年)(永禄8年(1565年説も)) 死没 慶長5年9月15日(1600年10月21日)
改名 桂松(慶松)、紀之介(幼名)、平馬、吉隆(別名) 別名 大谷刑部
官位 従五位下、刑部少輔 主君 豊臣秀吉→秀頼
父母 父:大谷盛治(大谷吉房とも)。母:東殿
子 大谷吉治(吉勝)、木下頼継、大谷泰重、竹林院(真田信繁正室)ほか
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。越前敦賀城主。
父は豊後の戦国大名・大友宗麟の家臣・大谷盛治ともいわれるが、近江六角氏の旧臣・大谷吉房とする説も有力である。
一説に、豊臣秀吉の隠し子とも。母は豊臣秀吉の正室の高台院(北政所、おね、ねね)の侍女である東殿といわれる。
従五位下、刑部少輔に叙されたことから、大谷刑部と称される。
関ヶ原の戦いで西軍へ加担することを決めた際に、吉継では「(三好)義継」に音が通じて不吉であるという理由で吉隆に改名したという。
関ヶ原古戦場にある陣跡を示す碑に「大谷吉隆陣所古址」、墓に「大谷吉隆墓」、それの案内板に「大谷吉隆(吉継)」と夫々記されている。
業病を患い、面体を白い頭巾で隠して戦った戦国武将として有名である。
豊臣家臣時代
永禄2年(1559年)に近江国(滋賀県)で生まれたとするのが通説であるが、父が病気治療のために豊後に赴いて、そのまま一時期大友氏の家臣になっていた折に生まれたという説もある。
天正初め頃に秀吉の小姓となり、寵愛を受けた。
天正10年(1582年)に織田信長が本能寺の変で横死し、その後に秀吉が台頭してくる。
そして天正11年(1583年)に織田氏筆頭家老の柴田勝家と秀吉との対立が表面化し、賤ヶ岳の戦いが起こった。
このとき、吉継は長浜城主柴田勝豊を調略して内応させ、七本槍に匹敵する三振の太刀と賞賛される大手柄を立てた。
天正13年(1585年)7月、従五位下、刑部少輔に叙任される。
天正14年(1586年)の九州征伐では、石田三成と共に兵站奉行に任じられ、功績を立てた。
天正17年(1589年)に越前敦賀に5万石を与えられ、敦賀城主となった。
天正18年(1590年)の小田原征伐にも従軍し、続いて東北地方の奥州仕置にも従軍し、出羽の検地を担当した。
文禄元年(1592年)から始まる秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では船奉行・軍監として船舶の調達、物資輸送の手配などを務めてその手腕を発揮し、功績を挙げている。
同年6月には秀吉の命令で奉行として渡海し、明との和平交渉を務めた。
文禄3年(1594年)、伏見城築城に参加して功績を立てている。
慶長2年(1597年)9月、秀吉を自邸に招いて饗応し、多くの贈り物を贈って忠誠を誓ったという。
そのため秀吉も吉継の長年の忠義を賞賛して、国行の太刀を与えたと言われている。
関ヶ原
慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去した後、吉継は五大老の徳川家康に次第に接近した。
慶長4年(1599年)、家康と前田利家の仲が険悪となり、徳川邸襲撃の風聞が立った際には加藤清正や福島正則ら豊臣氏の武断派諸将らと共に徳川邸に参じ、家康を警護している。
その後前田利長らによる「家康暗殺計画」の噂による混乱や、宇喜多秀家家中の紛争を調停している。
慶長5年(1600年)、家康は会津の上杉景勝に謀反の嫌疑があると主張して上方の兵を率い、上杉討伐軍を起こした。
家康とも懇意であった吉継は討伐軍に参加するために領国の敦賀を立ち、途中で失脚していた五奉行の石田三成の居城である佐和山城へと立ち寄る。
吉継は三成と家康を仲直りさせるために、三成の嫡男・石田重家を自らの軍中に従軍させようとしたのであるが、そこで親友の三成から家康に対しての挙兵を持ちかけられる。
これに対して吉継は、3度にわたって「無謀であり、三成に勝機なし」と説得するが、三成の固い決意を知り、熱意にうたれると、敗戦を予測しながらも息子たちとともに三成の下に馳せ参じ、西軍に与した。
こうして西軍首脳の一人となった吉継は、敦賀城へ一旦帰還し、東軍の前田利長を牽制するため、越前・加賀における諸大名の調略を行なった。
その結果、丹羽長重や山口宗永、上田重安らの諸大名を味方として取り込むことに成功した。
さらに吉継は偽情報を流して利長を動揺させ、8月に前田軍と戦った(浅井畷の戦い。実際に前田軍と戦ったのは丹羽長重であるが、利長は吉継によって流された偽情報に動揺して、軍を加賀に撤退させる際、丹羽軍に襲われたという)。
9月、吉継は三成の要請を受けて、脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、戸田勝成、赤座直保らの諸将を率いて美濃に進出する。
そして9月15日、東西両軍による関ヶ原の戦いに至った。
このとき、吉継は関ヶ原の西南にある山中村の藤川台に大谷一族や戸田・平塚為広の諸隊、あわせて6600人で布陣する。
そして吉継は輿に乗って軍を指揮し、東軍の藤堂高虎、京極高知両隊を相手に奮戦した。(大谷勢全軍の指揮は身体の不自由な吉継に代わり平塚為広が揮ったとの説あり)
その後、松尾山に布陣していた小早川秀秋隊1万5000人が裏切り大谷隊に突撃したが、予め小早川隊に備えていた直属の兵600で迎撃、更に前線から引き返した戸田勝成・平塚為広と合力し、兵力で圧倒する小早川隊を一時は500メートル押し戻し、2、3回と繰り返し山へ追い返した。
更に、吉継が小早川秀秋の裏切りに備えて配置していた脇坂・赤座・小川・朽木の4隊4290人が東軍に寝返り、大谷隊の側面に総攻撃を仕掛けた為、支えきれず大谷軍は瓦解、吉継も自害した。享年42。
自害した吉継の首は側近である湯浅五助の手により関ヶ原に埋められ、東軍側に発見されることはなかった。
辞世の句は「契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」
人物・逸話
吉継が生まれる前、両親は子供が出来ないことに嘆き悲しんでたところに、父の吉房が八幡神社へ参詣すると「神社の松の実を食べよ」という夢を見たという。
そこで、神社の松の前に落ちていた松の実を食べると吉継が生まれてきたという伝説があり、その幼名も慶松(桂松)という。
吉継は、当時の仏教観で先生(せんじょう)の罪業に因する病として忌み嫌われていた癩病(ハンセン病と思われるが異説有り)を患っており、崩れた顔を白い布で覆っていた。
また失明していたとも言われており、そのために政治の表舞台で活躍する機会が無かったとされる。
豊臣政権の五奉行で、関ヶ原の戦いの際には共に挙兵した石田三成との間には深い友情が存在したとされ、友情意識に疎い戦国時代においては両者の親密な関係は美事と思われ、衆道関係であったとする記録も存在している。
ある時開かれた茶会において、招かれた豊臣諸将は茶碗に入った茶を、1口ずつ飲んで次の者へ回す、回し飲みを始めた。
この時、吉継が口をつけた茶碗は誰もが嫌い、後の者たちは病気の感染を恐れて飲むふりをするだけであったが、三成だけ普段と変わりなくその茶を飲み(一説には吉継が飲む際に顔から膿が茶碗に落ちたが、三成はその膿ごと茶を飲み干したとされる)、気軽に話しかけてきた。
その事に感激した吉継は、関ヶ原において共に決起する決意をしたとされる。ただし、これは秀吉との話であったという説もある。
関ヶ原では三成との友情に殉じたとされるが吉継自身は家康とも親しく、実は当初は家康派だったが家康に取り入る他大名との駆け引きの中で次第に立場を失い結果として三成側に寝返ったという説もある。
徳川家康は吉継の才能を高く評価し、慶長5年(1600年)7月、会津征伐が終わり次第12万石に加増することを約束したとも言われる。
このため、吉継が西軍に与したことを知ったとき家康は非常に狼狽したという逸話がある。
朝鮮出兵などで兵站業務を担当し、優れた軍監ぶりを発揮したことから、豊臣秀吉は、「吉継に100万の兵を与えて、自由に指揮させてみたい」と語ったと伝えられる。
三成の横柄さを憂慮した吉継は、「お主(三成)が檄を飛ばしても普段の横柄ぶりから、豊臣家安泰を願うものすら内府(家康)の下に走らせる。
ここは安芸中納言(毛利輝元)か備前中納言(宇喜多秀家)を上に立てお主は影に徹せよ」と諫言したという。
三成ははじめのうちはこの諫言に従ったが、しかし西軍が編成されると次第に横柄さを取り戻したと言われている。
藤堂高虎の軍に従軍していた藤堂高刑(とうどうたかのり)が吉継の小姓の湯浅五助を発見した時、五助はうずくまっていたので勝負してみると五助は「待ってくれ。今ここに主君の首を埋めたが、主君の面容を敵に見せるは恥辱となるので、私の首の代わりにここに埋めたことを秘して欲しい」と頼んだのを高刑は「武士の面目にかけて他弁は致すまいぞ」と誓い、五助の首を取った。
高刑はこのことを伏せ、主君の高虎に同行して徳川家康に首を見せた。「五助ほどの者が主君の行方を知らぬはずがない。もしかしたら五助は首を隠したのではないのか?」と家康が聞くと、高刑は「知らない事はないが、五助と他弁をしないと誓って首を取ったので、このことはどなた様にも言えませぬ。どうぞ私を御処分くだされ」と言った。
家康は「これほどの律儀者がいるとはな。首のありかを言えば高虎の手柄になる物を」と言って高刑に褒美を与えたという。
吉継は豊臣秀吉の隠し子であり、嫉妬した秀吉の正室高台院が吉継に毒を盛って顔が変形する程の後遺症が残ったという説がある。
しかし吉継の生年はちょうど秀吉が当時自分より身分が上だったねね(高台院)と恋愛結婚した時期と重なっており、また吉継の実母東殿とねねの関係はいたって良好なことなどから、信憑性の点で疑問を呈されている。
相州正宗の作、敦賀正宗を召料としていたという。
吉継は智勇兼備・人望も厚かった名将として知られている。名将言行録でも、「吉継、汎く衆を愛し、智勇を兼ね、能く邪正を弁ず、世人、称して賢人と言ひしとぞ」と高く評価されている。
子孫
子の大谷吉治は関ヶ原以後に浪人となり、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では義兄弟に当たる真田信繁(幸村)らとともに大坂城へ入城し、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で討死した。
吉治系の子孫は帰農した。のち直系は絶え、石田家より養子を迎えて存続している。
また、3男・大谷泰重の子で、吉継の孫にあたる重政が越前松平家に仕官している。
娘(妹、姪を養女としたという説もある)の竹林院は真田信繁(幸村)の正室である。関ヶ原の戦い後は信繁の配流に従い九度山に移り、大阪の陣で信繁が死去すると、娘・おかね夫婦の援助を受け京都で余生を送った。慶安2年(1649年)に死去。
信繁の子のうち幸昌、守信、あくり、阿昌蒲、おかねが竹林院の子とされている。
どの子の系統かは不明であるが、会津戦争に際して会津藩に組織された白虎隊士中2番隊の隊員で、飯盛山で自刃したとされる19名に含まれている津田捨蔵は、吉継の子孫と言われている。
津田家には吉継の甲冑が伝来し、逸話を父から聞かされた捨蔵は鎧を着用すると三度宙に躍り上がり、敵の首を斬る動作をしたという。
主な家臣
湯浅隆貞 -五助。
湯浅十郎左衛門 -五助の子。後高力家に仕官した。
笠井慶秀 -武田家旧臣笠井満秀の子。関ヶ原後、日頃目をかけられていた井伊直政に召し出され仕官した。
三位融盛
- このほか、蜂屋頼隆旧臣で召抱えられた者も多いと思われる。





湯浅 五助 (ゆあさ ごすけ、生年不詳 - 1600年10月21日(慶長5年9月15日))
戦国時代の武将で、大谷吉継の家臣。
偏諱は隆貞(たかさだ)とされるが、湯浅五助の名の方が世間では知られている。
豊臣秀吉に「100万の軍を与え、指揮させてみたい」と言わしめたほどの武将である大谷吉継の家臣の中でも、特に武勇に秀でた者として有名であったといわれる。
関ヶ原の合戦で、小早川秀秋の攻撃によって大谷隊が壊滅したとき、切腹した大谷吉継の介錯を努めたという。
関ヶ原の合戦
ハンセン病を煩っていた吉継は、自害する前に側近の湯浅五助に「病み崩れた醜い顔を敵に晒すな」と申し伝えて果てた。
五助は主君の命を守り、取った吉継の首を戦場から離れた場所に埋めた。
埋め終わったときに、五助は藤堂高虎の軍に所属する藤堂高刑に発見される。
五助は、「私の首の代わりに、主君の首をここに埋めたことを秘して欲しい」と頼み、藤堂高刑はそれを受けて五助の首を取った。
藤堂高虎は、自分の甥(藤堂高刑の母は、高虎の姉)が勇猛な侍として名高い湯浅五助の首を取ったことに喜び、家康の本陣に報告した。
主君の高虎に同行して徳川家康に五助の首を見せた際、家康は手柄を褒めつつ、大谷吉継の側近中の側近である五助なら主君の居場所も知っているはずと、高刑を詰問した。
「知らない事はないが、五助と他弁をしないと誓って首を取ったのでこのことはどなた様にも言えませぬ。どうぞ、私を御処分くだされ」と高刑は答えた。
吉継の首の在処を言えば、更なる大手柄になるというのに頑として在処を言わない姿勢に家康は感心し、自分の槍と刀を与えたという話が今日まで伝わっている。
現在、岐阜県関ヶ原町に湯浅五助の墓が存在する。
場所は、大谷吉継の墓の隣であり、寄り添うように建てられている。
関ヶ原の合戦で戦った藤堂家の手によって建てられた。
生誕 永禄2年(1559年)(永禄8年(1565年説も)) 死没 慶長5年9月15日(1600年10月21日)
改名 桂松(慶松)、紀之介(幼名)、平馬、吉隆(別名) 別名 大谷刑部
官位 従五位下、刑部少輔 主君 豊臣秀吉→秀頼
父母 父:大谷盛治(大谷吉房とも)。母:東殿
子 大谷吉治(吉勝)、木下頼継、大谷泰重、竹林院(真田信繁正室)ほか
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。越前敦賀城主。
父は豊後の戦国大名・大友宗麟の家臣・大谷盛治ともいわれるが、近江六角氏の旧臣・大谷吉房とする説も有力である。
一説に、豊臣秀吉の隠し子とも。母は豊臣秀吉の正室の高台院(北政所、おね、ねね)の侍女である東殿といわれる。
従五位下、刑部少輔に叙されたことから、大谷刑部と称される。
関ヶ原の戦いで西軍へ加担することを決めた際に、吉継では「(三好)義継」に音が通じて不吉であるという理由で吉隆に改名したという。
関ヶ原古戦場にある陣跡を示す碑に「大谷吉隆陣所古址」、墓に「大谷吉隆墓」、それの案内板に「大谷吉隆(吉継)」と夫々記されている。
業病を患い、面体を白い頭巾で隠して戦った戦国武将として有名である。
豊臣家臣時代
永禄2年(1559年)に近江国(滋賀県)で生まれたとするのが通説であるが、父が病気治療のために豊後に赴いて、そのまま一時期大友氏の家臣になっていた折に生まれたという説もある。
天正初め頃に秀吉の小姓となり、寵愛を受けた。
天正10年(1582年)に織田信長が本能寺の変で横死し、その後に秀吉が台頭してくる。
そして天正11年(1583年)に織田氏筆頭家老の柴田勝家と秀吉との対立が表面化し、賤ヶ岳の戦いが起こった。
このとき、吉継は長浜城主柴田勝豊を調略して内応させ、七本槍に匹敵する三振の太刀と賞賛される大手柄を立てた。
天正13年(1585年)7月、従五位下、刑部少輔に叙任される。
天正14年(1586年)の九州征伐では、石田三成と共に兵站奉行に任じられ、功績を立てた。
天正17年(1589年)に越前敦賀に5万石を与えられ、敦賀城主となった。
天正18年(1590年)の小田原征伐にも従軍し、続いて東北地方の奥州仕置にも従軍し、出羽の検地を担当した。
文禄元年(1592年)から始まる秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では船奉行・軍監として船舶の調達、物資輸送の手配などを務めてその手腕を発揮し、功績を挙げている。
同年6月には秀吉の命令で奉行として渡海し、明との和平交渉を務めた。
文禄3年(1594年)、伏見城築城に参加して功績を立てている。
慶長2年(1597年)9月、秀吉を自邸に招いて饗応し、多くの贈り物を贈って忠誠を誓ったという。
そのため秀吉も吉継の長年の忠義を賞賛して、国行の太刀を与えたと言われている。
関ヶ原
慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去した後、吉継は五大老の徳川家康に次第に接近した。
慶長4年(1599年)、家康と前田利家の仲が険悪となり、徳川邸襲撃の風聞が立った際には加藤清正や福島正則ら豊臣氏の武断派諸将らと共に徳川邸に参じ、家康を警護している。
その後前田利長らによる「家康暗殺計画」の噂による混乱や、宇喜多秀家家中の紛争を調停している。
慶長5年(1600年)、家康は会津の上杉景勝に謀反の嫌疑があると主張して上方の兵を率い、上杉討伐軍を起こした。
家康とも懇意であった吉継は討伐軍に参加するために領国の敦賀を立ち、途中で失脚していた五奉行の石田三成の居城である佐和山城へと立ち寄る。
吉継は三成と家康を仲直りさせるために、三成の嫡男・石田重家を自らの軍中に従軍させようとしたのであるが、そこで親友の三成から家康に対しての挙兵を持ちかけられる。
これに対して吉継は、3度にわたって「無謀であり、三成に勝機なし」と説得するが、三成の固い決意を知り、熱意にうたれると、敗戦を予測しながらも息子たちとともに三成の下に馳せ参じ、西軍に与した。
こうして西軍首脳の一人となった吉継は、敦賀城へ一旦帰還し、東軍の前田利長を牽制するため、越前・加賀における諸大名の調略を行なった。
その結果、丹羽長重や山口宗永、上田重安らの諸大名を味方として取り込むことに成功した。
さらに吉継は偽情報を流して利長を動揺させ、8月に前田軍と戦った(浅井畷の戦い。実際に前田軍と戦ったのは丹羽長重であるが、利長は吉継によって流された偽情報に動揺して、軍を加賀に撤退させる際、丹羽軍に襲われたという)。
9月、吉継は三成の要請を受けて、脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、戸田勝成、赤座直保らの諸将を率いて美濃に進出する。
そして9月15日、東西両軍による関ヶ原の戦いに至った。
このとき、吉継は関ヶ原の西南にある山中村の藤川台に大谷一族や戸田・平塚為広の諸隊、あわせて6600人で布陣する。
そして吉継は輿に乗って軍を指揮し、東軍の藤堂高虎、京極高知両隊を相手に奮戦した。(大谷勢全軍の指揮は身体の不自由な吉継に代わり平塚為広が揮ったとの説あり)
その後、松尾山に布陣していた小早川秀秋隊1万5000人が裏切り大谷隊に突撃したが、予め小早川隊に備えていた直属の兵600で迎撃、更に前線から引き返した戸田勝成・平塚為広と合力し、兵力で圧倒する小早川隊を一時は500メートル押し戻し、2、3回と繰り返し山へ追い返した。
更に、吉継が小早川秀秋の裏切りに備えて配置していた脇坂・赤座・小川・朽木の4隊4290人が東軍に寝返り、大谷隊の側面に総攻撃を仕掛けた為、支えきれず大谷軍は瓦解、吉継も自害した。享年42。
自害した吉継の首は側近である湯浅五助の手により関ヶ原に埋められ、東軍側に発見されることはなかった。
辞世の句は「契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」
人物・逸話
吉継が生まれる前、両親は子供が出来ないことに嘆き悲しんでたところに、父の吉房が八幡神社へ参詣すると「神社の松の実を食べよ」という夢を見たという。
そこで、神社の松の前に落ちていた松の実を食べると吉継が生まれてきたという伝説があり、その幼名も慶松(桂松)という。
吉継は、当時の仏教観で先生(せんじょう)の罪業に因する病として忌み嫌われていた癩病(ハンセン病と思われるが異説有り)を患っており、崩れた顔を白い布で覆っていた。
また失明していたとも言われており、そのために政治の表舞台で活躍する機会が無かったとされる。
豊臣政権の五奉行で、関ヶ原の戦いの際には共に挙兵した石田三成との間には深い友情が存在したとされ、友情意識に疎い戦国時代においては両者の親密な関係は美事と思われ、衆道関係であったとする記録も存在している。
ある時開かれた茶会において、招かれた豊臣諸将は茶碗に入った茶を、1口ずつ飲んで次の者へ回す、回し飲みを始めた。
この時、吉継が口をつけた茶碗は誰もが嫌い、後の者たちは病気の感染を恐れて飲むふりをするだけであったが、三成だけ普段と変わりなくその茶を飲み(一説には吉継が飲む際に顔から膿が茶碗に落ちたが、三成はその膿ごと茶を飲み干したとされる)、気軽に話しかけてきた。
その事に感激した吉継は、関ヶ原において共に決起する決意をしたとされる。ただし、これは秀吉との話であったという説もある。
関ヶ原では三成との友情に殉じたとされるが吉継自身は家康とも親しく、実は当初は家康派だったが家康に取り入る他大名との駆け引きの中で次第に立場を失い結果として三成側に寝返ったという説もある。
徳川家康は吉継の才能を高く評価し、慶長5年(1600年)7月、会津征伐が終わり次第12万石に加増することを約束したとも言われる。
このため、吉継が西軍に与したことを知ったとき家康は非常に狼狽したという逸話がある。
朝鮮出兵などで兵站業務を担当し、優れた軍監ぶりを発揮したことから、豊臣秀吉は、「吉継に100万の兵を与えて、自由に指揮させてみたい」と語ったと伝えられる。
三成の横柄さを憂慮した吉継は、「お主(三成)が檄を飛ばしても普段の横柄ぶりから、豊臣家安泰を願うものすら内府(家康)の下に走らせる。
ここは安芸中納言(毛利輝元)か備前中納言(宇喜多秀家)を上に立てお主は影に徹せよ」と諫言したという。
三成ははじめのうちはこの諫言に従ったが、しかし西軍が編成されると次第に横柄さを取り戻したと言われている。
藤堂高虎の軍に従軍していた藤堂高刑(とうどうたかのり)が吉継の小姓の湯浅五助を発見した時、五助はうずくまっていたので勝負してみると五助は「待ってくれ。今ここに主君の首を埋めたが、主君の面容を敵に見せるは恥辱となるので、私の首の代わりにここに埋めたことを秘して欲しい」と頼んだのを高刑は「武士の面目にかけて他弁は致すまいぞ」と誓い、五助の首を取った。
高刑はこのことを伏せ、主君の高虎に同行して徳川家康に首を見せた。「五助ほどの者が主君の行方を知らぬはずがない。もしかしたら五助は首を隠したのではないのか?」と家康が聞くと、高刑は「知らない事はないが、五助と他弁をしないと誓って首を取ったので、このことはどなた様にも言えませぬ。どうぞ私を御処分くだされ」と言った。
家康は「これほどの律儀者がいるとはな。首のありかを言えば高虎の手柄になる物を」と言って高刑に褒美を与えたという。
吉継は豊臣秀吉の隠し子であり、嫉妬した秀吉の正室高台院が吉継に毒を盛って顔が変形する程の後遺症が残ったという説がある。
しかし吉継の生年はちょうど秀吉が当時自分より身分が上だったねね(高台院)と恋愛結婚した時期と重なっており、また吉継の実母東殿とねねの関係はいたって良好なことなどから、信憑性の点で疑問を呈されている。
相州正宗の作、敦賀正宗を召料としていたという。
吉継は智勇兼備・人望も厚かった名将として知られている。名将言行録でも、「吉継、汎く衆を愛し、智勇を兼ね、能く邪正を弁ず、世人、称して賢人と言ひしとぞ」と高く評価されている。
子孫
子の大谷吉治は関ヶ原以後に浪人となり、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では義兄弟に当たる真田信繁(幸村)らとともに大坂城へ入城し、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で討死した。
吉治系の子孫は帰農した。のち直系は絶え、石田家より養子を迎えて存続している。
また、3男・大谷泰重の子で、吉継の孫にあたる重政が越前松平家に仕官している。
娘(妹、姪を養女としたという説もある)の竹林院は真田信繁(幸村)の正室である。関ヶ原の戦い後は信繁の配流に従い九度山に移り、大阪の陣で信繁が死去すると、娘・おかね夫婦の援助を受け京都で余生を送った。慶安2年(1649年)に死去。
信繁の子のうち幸昌、守信、あくり、阿昌蒲、おかねが竹林院の子とされている。
どの子の系統かは不明であるが、会津戦争に際して会津藩に組織された白虎隊士中2番隊の隊員で、飯盛山で自刃したとされる19名に含まれている津田捨蔵は、吉継の子孫と言われている。
津田家には吉継の甲冑が伝来し、逸話を父から聞かされた捨蔵は鎧を着用すると三度宙に躍り上がり、敵の首を斬る動作をしたという。
主な家臣
湯浅隆貞 -五助。
湯浅十郎左衛門 -五助の子。後高力家に仕官した。
笠井慶秀 -武田家旧臣笠井満秀の子。関ヶ原後、日頃目をかけられていた井伊直政に召し出され仕官した。
三位融盛
- このほか、蜂屋頼隆旧臣で召抱えられた者も多いと思われる。





湯浅 五助 (ゆあさ ごすけ、生年不詳 - 1600年10月21日(慶長5年9月15日))
戦国時代の武将で、大谷吉継の家臣。
偏諱は隆貞(たかさだ)とされるが、湯浅五助の名の方が世間では知られている。
豊臣秀吉に「100万の軍を与え、指揮させてみたい」と言わしめたほどの武将である大谷吉継の家臣の中でも、特に武勇に秀でた者として有名であったといわれる。
関ヶ原の合戦で、小早川秀秋の攻撃によって大谷隊が壊滅したとき、切腹した大谷吉継の介錯を努めたという。
関ヶ原の合戦
ハンセン病を煩っていた吉継は、自害する前に側近の湯浅五助に「病み崩れた醜い顔を敵に晒すな」と申し伝えて果てた。
五助は主君の命を守り、取った吉継の首を戦場から離れた場所に埋めた。
埋め終わったときに、五助は藤堂高虎の軍に所属する藤堂高刑に発見される。
五助は、「私の首の代わりに、主君の首をここに埋めたことを秘して欲しい」と頼み、藤堂高刑はそれを受けて五助の首を取った。
藤堂高虎は、自分の甥(藤堂高刑の母は、高虎の姉)が勇猛な侍として名高い湯浅五助の首を取ったことに喜び、家康の本陣に報告した。
主君の高虎に同行して徳川家康に五助の首を見せた際、家康は手柄を褒めつつ、大谷吉継の側近中の側近である五助なら主君の居場所も知っているはずと、高刑を詰問した。
「知らない事はないが、五助と他弁をしないと誓って首を取ったのでこのことはどなた様にも言えませぬ。どうぞ、私を御処分くだされ」と高刑は答えた。
吉継の首の在処を言えば、更なる大手柄になるというのに頑として在処を言わない姿勢に家康は感心し、自分の槍と刀を与えたという話が今日まで伝わっている。
現在、岐阜県関ヶ原町に湯浅五助の墓が存在する。
場所は、大谷吉継の墓の隣であり、寄り添うように建てられている。
関ヶ原の合戦で戦った藤堂家の手によって建てられた。
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