島津豊久 墓

◎瑠璃光寺
・牧田上野の集落より南に10キロほど、伊勢街道をたどり、勝地峠を越えて山間の道を進んだ所に樫原の集落がある。
・現在の上石津町上多良樫原地区である。
・ここに瑠璃光寺という寺があり、島津豊久の位牌が奉られている。
・その近くのカンリン藪 (高取) と呼ばれている所に豊久の墓がある。
・また寺の梵鐘の銘には豊久に関する記述がある。
島津豊久の位牌銘 嶋光院殿忠道源津大居士 慶長五年九月十五日
瑠璃光寺梵鐘銘 南閣浮堤大日本濃州石津郡多良郷樫原邑高輪山薬師寺 曇花峰瑠璃光禅寺者・・・・・・・・・・・・
慶長年中当国関ヶ原陣之砌 薩州島津中啓公於 此所戦死。
於当寺葬 廟碑假然矣 ・・・・・・・・
維持天明七丁未稔孟夏法制定居日 奉勅現妙応二十五世当山開閣円宗妙覚誌 ※天明七年 (1787) 
○カンリン藪
瑠璃光寺ノ傍にはカンリン藪 ( 高取 ) と言われている林の中に豊久の墓があり、島津塚と呼ばれている。
この林は付近の住民によって聖域として昔より伝えられてきた。
また立木に覆われた、墓の付近には、不思議と草が茂らないと昔から言われている。
関ヶ原の戦いの後、薩摩藩と地元の役人との間で豊久の最後を伝える書簡が取り交わされた。
また、言い伝えでは島津家は参勤交代の途中に寺や三輪氏へ使者を送ってその礼を謝して、寺への祭祀料も欠かさなかったさいわれている。 
○島津豊久の墓
村の伝承によると、烏頭坂の激戦で重傷を負った豊久の一行は、井伊直政・松平忠吉・小早川等の追い迫る敵より逃れて、伊勢街道の勝地峠にたどり着き、ここで待ち伏せ戦術をとって敵を退かせた。
残兵たちは瀕死の豊久を介護しながら街道を南下して、上多良の白拍子の谷に隠れた。
そしてさらに名及から樫原の地に逃れてきたところ、瑠璃光寺の僧や名主の三輪内助入道一斉などがこれをかくまい傷の手当をした。
しかし、豊久の傷は重く、手足まといになることを憂慮して、かくまわれていた農家で自刃したと伝えられる。


◎島津 豊久(しまづ とよひさ、元亀3年(1570年) - 慶長5年9月15日(1600年10月21日))
・島津氏の一族。
・父は島津家久、母は樺山善久の娘。
・妻は島津忠長の娘。
●生涯
・父の家久は島津義久や島津義弘の弟に当たり、島津氏が豊臣秀吉に降伏した年に没した。
・父の後を継いで日向佐土原城(宮崎市佐土原町)の城主となる。
・豊臣秀吉に従い小田原征伐や朝鮮出兵など各地を転戦。
・秀吉死後の1600年に関ケ原の戦いが起ると伯父の義弘と共に西軍として参陣し、戦いが東軍優位となると義弘が敵中突破による退却を決意したとき、義弘の身代わりとなって戦死する。
●永吉島津家
・戦後、領地の佐土原はいったん徳川家に接収された後、一族の島津以久が入った。
・豊久には子供が無く、家は姪の婿が相続した。
・しかしその系統も寛永元年(1624年)に断絶。
・後に18代当主・島津家久(豊久の父とは別人、従兄弟の島津忠恒と同一人物)の息子・久雄が継嗣に入り、永吉島津家として残る。
●人物
・実父・家久を亡くし、孤独を味わっていた豊久は家久の兄・義弘を頼るようになる。
・関ヶ原で義弘に付き従ったのは、自ら駆けつけた者達だけであった。
●墓所
・岐阜県養老郡上石津町(現大垣市)に豊久の石碑がある。
・江戸時代、手伝普請で木曽三川治水工事に訪れた薩摩藩士が五輪塔を建て墓とした。
・又、現地には豊久の死について異説が伝わっている。
・一つは、落ち延びてきた豊久一行を村人が拒絶したため豊久は無念の死を遂げ、その祟りのために墓所には草木も生えなくなったという話である。
・もう一つは全く逆で、必死に豊久を看病する村人に嫌疑が掛かるのを忍びなく思い自刃したという話である。
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