大平城

−−−−−−−−−−−−−−−−
 大平城 (おいだいらじょう)                   08.06.05
−−−−−−−−−−−−−−−−
 
所在地 浜松市(浜北市)浜北区大平

別名 大退羅城
遺構等 曲輪、堀切、碑、説明板
現状 山林
築城年 南北朝期
築城者 
歴代城主 
形式 山城
登城口から主郭まで約10分
--------------------------------------------------------------------------------
南北300m、東西400mの南北朝時代の山城(尾根式複郭型山城)である。
城は自然地形を利用して、曲輪を縄張りしており、南城と北城の二区画に区分され、一城別格の形態をなし、北城が中枢部で、南城は二次的機能を持っていたと考えられる。

大平城は南朝方についた引佐町にある三嶽城を本拠とする井伊氏の支城のひとつとして築かれた。
井伊氏は三嶽城を中心に南を浜松市の鴨江城、西を三ヶ日町の千頭嶺城、東を大平城と支城を固めた。
井伊氏は南朝の後醍醐天皇の皇子の宗良親王を迎え、遠江の南朝勢力の中心となった。
大平城の南朝軍と足利尊氏の命を受けた高帥泰率いる北朝軍の攻防戦は暦応2年(延元4年・1339年)から翌3年(興国元年・1340年)にかけて繰り広げられた。
この時の戦いの様子は三ヶ日町の大福寺に残る「瑠璃山年録残編裏書」に詳しく書かれている。
この資料を要約してみると歴応二年七月二十二日、北朝方の高師泰(越後殿下)の軍が大平城に侵攻し、高師兼(尾張殿)の軍は浜名方面に侵攻した。
七月二十六日に鴨江城が落城し、十月三十日に千頭峯城が落城した。翌年の歴応三年正月三十日に三嶽城が落城した。
そして、八月二十四日に大平城が高師泰と遠江国守護の仁木義長の軍によって落城したことがかかれている。
こうして南朝方は、遠江での拠点を失い、宗良親王は信濃国へ落ちていった。
その後、大平城は歴史の上にも登場することはなかった。  







クリック

夕暮れだったので登り口の写真だけ撮って帰りました












コメント
コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する