上田城
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上田城 08.07.11
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長野県上田市二の丸
通称 尼ヶ淵城 真田城
城郭構造 梯郭式平城
天守構造 不明
築城主 真田昌幸
築城年 1583年(天正11年)
主な城主 真田氏、仙石氏、松平氏
廃城年 1874年(明治7年)
遺構 櫓、石垣、土塁、堀
1583年(天正11年)、甲斐武田氏の旧臣である真田昌幸により築城され、二度にわたる徳川軍の攻撃を撃退した事で知られる堅城。
江戸時代には上田藩の藩庁が置かれた。
上田盆地の北部に位置し、千曲川の分流である尼ヶ淵に面していたので、築城当初は「尼ヶ淵城」と呼ばれることもあった。
北に太郎山、南に千曲川があり、築城前は土豪小泉氏の古い城館が存在したと伝えられる。
城の南側は千曲川に接し、北側と西側に矢出沢川を引き込み総構えとし、唯一の攻め口である東側にも蛭沢川や湿地帯などがある。
本丸を南側に置き、二の丸が本丸の北・東・西を囲み、二の丸と東の大手門の間に三の丸を置く、梯郭式といわれる縄張りとなっている。
これは千曲川に接した南側が最も天然の防御力が強く、当時の情勢から東(徳川氏)からの攻撃を想定したものである。
通常は本丸や二の丸など城の中心に置かれる政務用の建物が、三の丸に置かれているのが特徴である。
これは、真田信幸が上田領を継承した際に、上田城は破却されており、城下町に近い三の丸跡地に居館を建てたことに始まる。
その後、上田城は仙石氏により再建されたが、不完全なまま終わっている。
真田昌幸時代の上田城について正確な構造は、わかっていない。
上田城に天守閣が存在していたのか、確認できる資料はない。
起工から二年後の第一次上田合戦当時の資料(山鹿素行の「武家事記」)には、「天守も無き小城」との記述が見られ、後に仙石氏により再建された上田城にも天守閣は存在しない。
ただ第一次上田合戦当時の上田城は未完成とされていることや、寛永年間作成という絵図には上田城本丸に「御天守跡」と記入されていること、同時期の近隣諸城(小諸城や松本城・高島城)や嫡男真田信幸の沼田城に天守閣があることなど、いくつかの傍証から真田昌幸時代に天守が存在した可能性はある。








甲斐武田氏の有力武将であった真田昌幸は、主家滅亡後に織田信長に臣従し滝川一益の与力となるが、上野に乗り込んだ滝川一益が神流川の戦いで北条氏に敗退して以後は、周囲の有力勢力(徳川・北条・上杉)の狭間で揺れ動くことになる(天正壬午の乱)。
滝川一益の敗退直後は北条氏に臣従するが、すぐに徳川氏の誘いに応じて乗り換え、上田・小県地方制圧の拠点として1583年(天正11年)に上田城の築城に着手する。
この時には徳川の支援を得たが、敵対する北条氏による上州方面での攻勢のみならず、北方の上杉氏からの妨害も受けている。
しかし翌年には北条・徳川の和議に反発して徳川と決別、当初は北側に予定していた大手(防御正面)を対徳川を想定して東側に変更している。
1585年(天正13年) 次子真田信繁(幸村)を人質に送り上杉景勝に臣従し、上田城にて徳川軍(約7000)を迎え撃ち、撃退に成功する(第1次上田合戦)。
1600年(慶長5年) 徳川家康率いる上杉討伐軍から離脱した昌幸が、石田三成の西軍に与しておよそ2000の兵力で上田城に篭城。徳川秀忠率いる東軍およそ3万8000を迎え撃ち、前回に続いて守り抜いた(第2次上田合戦)。
この時、上田城攻略を断念した秀忠軍は、関ヶ原の戦いに間に合わないという大失態を演じてしまう。
1601年(慶長6年) 真田昌幸・信繁が紀伊国九度山に配流になり、上田城は徳川の手で破壊されてしまう。
徳川側についた嫡男信之が上田領を引き継ぎ、三の丸跡地に居館(陣屋)を構える。
その為、信之時代には上田城は存在しておらず、信之を上田城主とするのは正確ではない。
1622年(元和8年) 真田家は同国松代に移封される。
1626年(寛永3年) 代わった仙石忠政により再建が始められたが、2年後の1628年(寛永5年)忠政の死により城普請は中断される。
以後仙石氏三代の後は松平氏が明治維新まで城主を勤めるが、本格的な再建は行われなかった。
1874年(明治7年) 廃藩置県により廃城となっていた上田城の土地、建物は民間へ払い下げられる。
本丸に7棟あった櫓は、一つを残して解体、売却された。
このうち2棟は上田市内の遊郭に払い下げられ、一つの建物に連結されて使用された。
昭和に入って、市民の運動によって買い戻され、現在の北櫓と南櫓の場所に再び設置された。
上田城主屋敷門(現上田高校正門)仙石忠政により再建された本丸の3棟の櫓(南櫓、北櫓、西櫓)が現存し、県指定文化財に指定されている。
1994年には南櫓と北櫓の間を結ぶ東虎口櫓門と袖塀が古写真を元に復元された。
本丸跡には、歴代城主を祭った神社がある。
明治時代に建てられた当初は、松平神社と呼ばれていたが、現在では、真田神社と呼ばれている。
境内には古井戸があり、「城外への抜け穴になっていた」との伝説がある。
三の丸の藩主居館跡には、松平氏時代の屋敷門と堀が残されている。
同地は現在上田高校になっており、門は学校の正門として使用されている。

