七尾城
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七 尾 城 08.09.17
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通称 松尾城、末尾城
城郭構造 連郭式山城 天守構造 なし
築城主 畠山満慶 築城年 1428年 - 1429年(正長年間)
主な城主 畠山氏、上杉氏、前田氏
廃城年 1589年(天正17年)
・七尾湾が一望できる、石動山系の北端の標高300mほどの尾根上(通称「城山」)にあり、その尾根から枝分かれする行く筋もの大小の尾根にも無数の砦を配置した大規模な山城である。
・「七尾」という名は「七つの尾根」から由来されるという。
・別名として「松尾城」あるいは「末尾城」と記した資料も残る。
・いずれも尾根づたいに配された曲輪を連想させる。
・七尾畠山氏の初代当主で能登国守護の畠山満慶が正長年間頃にこの地に築いたと思われるが、当時の七尾城は砦程度の規模と見られ、行政府である守護所も府中(現七尾市府中)に置かれていた。
・次第に拡張、増強され、以後約150年間にわたって領国支配の本拠となり、五代当主である畠山慶致の頃には守護所も府中(七尾城山の麓)から七尾城へと移されたという。
・その後、畠山義続・畠山義綱の頃に能登では戦乱が続いたために増築され、最大の縄張りとなったと言われる。
・山麓に城下町「千門万戸」が一里余りも連なり、山頂にそびえる七尾城の威容は「天宮」とまで称されたと記録に残っている。
・日本五大山城のひとつに数えられるほど強固な城であった。
・1577年(天正5年)に能登国に侵攻した上杉謙信に包囲されるが、一年にわたって持ちこたえた。
・しかし、重臣同士の対立の末に擁立されていた若年の当主畠山春王丸が長続連、遊佐続光、温井景隆らの対立を収めることができず、結果七尾城は孤立し、最終的には遊佐続光の内応によって徹底抗戦を主張した長氏一族が殺害され、同年9月13日に開城された。
・この際上杉謙信が詠んだ漢詩「九月十三夜陣中作」は非常に有名である。※しかし、実際にはこの詩は上杉謙信が詠んだものではないといわれている。
・越中国と能登国を繋ぐ要所である七尾城は、のちに織田氏によって領され、城主として前田利家が入るが、既に山城の時代ではなく、拠点を小丸山城に移したため、しばらく子の前田利政が城主となっていたが、のち、1589年(天正17年)廃城となった。
・2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(34番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。
・前田利家が能登に在国したおり、小丸山城に移ったため、現在の七尾市街地も小丸山付近にある。
・従って開発や災害などによる遺構の損失を逃れ、非常にしっかりと遺構が残っている。
・低石垣を五段に積み重ねた本丸の石垣を中心に、各曲輪の石垣のほとんどが現存する。
・そのため、山城の歴史上重要な遺跡として、1934年(昭和9年)に、国の史跡に指定されている。
・2005年(平成17年)には地中レーダー探査による七尾城の遺構調査が行われ、そこで柱跡などの遺構が確認された。



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展望台



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◎七尾城の戦い
●発端
天正3年(1575年)8月、天下布武を目指す織田信長は、柴田勝家に越前侵攻を命じ、当時越前を支配していた石山本願寺の下間頼照ら1万2000人の宗徒を処刑させた。
これに対して越後の上杉謙信は危機感と不快感を抱き、それまで結んでいた信長との同盟を破棄し、翌天正4年(1576年)にはそれまで対立していた顕如と和睦し、共同して信長と対決することにした。
天正4年(1576年)9月、謙信は2万と号する大軍を率いてまず越中に侵攻する。
越中は、もともと河内畠山氏が守護であったが、戦国時代に入ると守護代の神保氏、椎名氏らが力をつけて互いに覇権を争っていた。
能登畠山氏では畠山義綱が永禄9年(1566年)に家臣団によって追放され、その後釜として擁立された畠山義慶も天正2年(1574年)2月に不慮の死を遂げた。
これは一説に家臣の遊佐続光と温井景隆による暗殺とも言われている。
そしてその後を継いだ弟の畠山義隆も天正4年(1576年)に死去し、遂にはその義隆の子でまだ幼児の畠山春王丸が擁立されるなど著しく不安定であった。
大義名分は、かつて畠山氏から人質として差し出されていた上条政繁こと畠山義則を新たな畠山氏の当主として擁立し、かねてから乱れている能登の治安を回復するというものである。
●第一次七尾城の戦い
これに対して、能登城内では老臣筆頭長続連の指導の下、籠城戦と決定する。
続連が七尾城の大手口、温井景隆が古府谷、遊佐続光が蹴落口をそれぞれ守備することを決めた。
さらに続連は謙信の背後を撹乱するために、笠師村や土川村、長浦村などの領民に対して一揆を起こすように扇動したのである。
ところが、謙信もかつて一向一揆に悩まされた経験から一揆に関する情報網があり、これらを全て鎮圧した上で七尾城を囲んだ。
しかし、七尾城は名君・畠山義総によって築かれた難攻不落さで縄張りも広く、春日山城にも匹敵する堅城だったためさすがの謙信も攻めあぐねていた。
そこで七尾城を孤立させるためにその支城群に矛先を転じた。
鹿島郡中島町谷内にある熊木城、珠洲市正院町川尻の黒滝城をはじめ、羽咋郡富来町八幡の富来城、羽咋郡富来町の城ヶ根山城、羽咋市柳田町にある粟生七郎の粟生城、鳳至郡柳田村国光にある牧野上総介の米山城などが、あっという間に落として七尾城は孤立させた。
しかしそれでも、堅城を頼む七尾城の続連らは降伏しなかった。
そして越年した天正5年(1577年)3月、小田原城の北条氏政が、謙信の領地である上野国に大軍を率いて侵攻しようとしたため、謙信は帰国することを余儀なくされた。
このとき、謙信は熊木城に三宝寺平四郎と斉藤帯刀・内藤久弥・七杉小伝次を、黒滝城に長景連を、穴水城に長沢光国と白小田善兵衛を、甲山城に轡田肥後と平子和泉を、富来城に藍浦長門を、石動山に上条織部と畠山将監をそれぞれ配置した上で一旦春日山に戻った。
●畠山軍の反撃
謙信が越後に帰国すると、七尾城にあった畠山軍は即座に反撃を開始した。
熊木城は畠山の家臣・甲斐親家の謀略で誘いに乗った斉藤帯刀が裏切りを起こし落城、七杉小伝次は自害し、三宝寺平四郎と内藤久弥は討ち死にした。
富来城にも畠山の家臣・杉原和泉を総大将とした軍が押し寄せ、藍浦長門は捕らえられて処刑された。
また、続連自身も自らの居城であった穴水城を奪還すべく出陣するなど、畠山軍の攻勢は凄まじかった。
●第二次七尾城の戦い
ところが閏7月には、北条軍をあっという間に破った謙信が、再び大軍を率いて能登に攻め寄せてきたのである。
驚いた続連は、慌てて奪い返した各地の城を放棄して全兵力を以って七尾城に籠もった。
さらにこの時続連は領民に対して徹底抗戦を呼びかけ、半ば強制的に領民を七尾城に籠もらせたのである。
このため、城内は兵士と領民合わせて1万5000人近くの大人数となった。
数なら越後勢に決して劣らない人数だったのである。
ちなみに、このように七尾城で慌てて再び籠城戦の準備がなされていたとき、穴水城の長沢光国と甲山城の轡田肥後が七尾に攻め寄せたが、逆に敗退している。
続連は、兵力を集めて堅城である七尾城に立て籠もれば、謙信を追い返せると考えていた。
しかし1万5000人も集めたため、これが逆に仇となった。
これだけの人数の糞尿を処理するトイレが七尾城内部には無く、糞尿を処理しきれなくなって七尾城内部のあちこちで垂れ流し状態となったのである。
しかも、季節は夏。このような不衛生な状況で遂に城内で疫病が起こり、畠山軍の兵士たちは戦いではなく、疫病で死ぬ者が相次いだのである。
おまけにこの中の犠牲者に、幼君の畠山春王丸までもがいたのである。
窮した続連は、子の長連龍を使者として安土城の織田信長のもとに派遣し、後詰を要請すると共に小伊勢村の八郎右衛門に一揆を起こすように扇動した。
ところが、一揆はまたもや謙信によって事前に封じ込まれ、七尾城は落城寸前となった。
このような中で、かねてから親謙信派であった遊佐続光は、かねてからの謙信の呼びかけに応じ、仲間の温井景隆や三宅長盛(景隆の弟)らと結託して内応しようとしていた。
もともと彼らは、親信長派として実権を自分たちから奪った続連を快く思わず、しかもこのまま抗戦しても勝機が無いと踏んだからである。
そして9月15日、十五夜の月の日に城内で反乱を起こし、城門を開けて上杉軍を招き入れたのである。
この反乱によって続連とその子・長綱連、さらに綱連の弟・長則直や綱連の子・竹松丸と弥九郎ら長一族はことごとく討たれてしまった。
長一族で唯一生き残ったのは、信長のもとに援軍を要請に行った連龍と、綱連の末子である菊末丸のみであった。
こうして七尾城は謙信の手に落ちた。能登も完全に謙信の支配下に入ったのである。
戦いの影響
この七尾城の戦いは、謙信にとっては重要な戦いだったようである。
謙信はこのとき有名な『十三夜』の詩を作っている。
この勝利で能登を版図に加えた謙信は、結果戦力をさらに増強、西上して信長征伐の意思を示したのである。
一方、柴田勝家を総大将とした織田氏の援軍は七尾城救援に向ったが、途中で落城の報に接した。
9月23日の手取川の戦いでは、勝利の余勢を駆って加賀に進んだ上杉軍に攻め懸けられ散々に打ち破られている。
この後暫く能登は上杉勢力下だったが、謙信死後は能登国内の反上杉勢力や飛騨経由で越中に攻めこんだ織田勢力に圧迫され、信長の手に帰した。

