金沢城
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金 沢 城 08.09.18
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別名:尾山城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 不明(1592年築)
御三階櫓(1593年築)
築城主 佐久間盛政
築城年 1580年(天正8年)
主な改修者 前田利家・利長
主な城主 佐久間氏、前田氏
指定文化財 国の重要文化財(石川門、三十間長屋、鶴丸倉庫)
再建造物 菱櫓・橋詰門・橋詰門続櫓・五十間長屋
・金沢平野のほぼ中央を流れる犀川と浅野川とに挟まれた小立野台地の先端に築かれた戦国時代から江戸時代にかけての梯郭式の平山城である。
・櫓や門に見られる、白漆喰の壁にせん瓦を施した海鼠壁と屋根に白い鉛瓦が葺かれた外観、櫓1重目や塀に付けられた唐破風や入母屋破風の出窓は、金沢城の建築の特徴である。
・織田信長が、この地にあった加賀一向一揆の拠点で浄土真宗の寺院であった「尾山御坊(おやまごぼう)」を攻め落とし、佐久間氏を置いて「金沢城」といった。
・後に佐久間氏が賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉により滅ぼされ、秀吉は金沢城を前田利家に与えた。
・利家は1592年から改修工事を始め、曲輪や堀の拡張、5重の天守や櫓を建て並べた。兼六園は、5代綱紀が金沢城に付属してつくらせた大名庭園である。
・明治以降は、存城とされて軍施設が置かれたため建物の一部を残して撤去され、第2次世界大戦後には金沢大学が1995年まで置かれていた。
三十間長屋(鉄砲蔵・重文)
鶴丸倉庫(武具蔵・重文)
橋詰門一の門(復元)
石川門一の門(枡形内から撮影・重文)
菱櫓(復元)
1546年(天文15年) 空堀や柵などを備える城造りの寺院のであった尾山御坊(金沢御堂)が建立され、加賀一向一揆で加賀国の支配権を得た本願寺の拠点となった。
1580年(天正8年) 佐久間盛政が尾山御坊を攻め落とし、金沢城と改称して用いた。
1583年(天正11年) 賤ヶ岳の戦いの後、羽柴秀吉(豊臣秀吉)から加増を受けた前田利家が4月28日(新暦:6月14日)に入城し、尾山城と改称した。
1587年(天正15年) バテレン追放令により除封されたキリシタン大名高山右近が前田利家に呼ばれ、尾山城の大改造を行った(再び金沢城に改称されたのはこの頃といわれている)。
1592年(文禄元年) 利家の子、前田利長が再び改造を行った。
1602年(慶長7年) 天守が落雷によって焼失、代わりに三階櫓が建造された。また、この頃から金沢城という名称が定着した。
1632年(寛永9年) 辰巳用水が城内に引かれた。
1759年(宝暦9年) 宝暦の大火に見舞われる。
1873年(明治6年) 全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方により存城処分となり、陸軍省の財産となる。
1881年(明治14年) 火災で石川門と三十間長屋と鶴丸倉庫を残して焼失。
2001年(平成13年) 第1期工事により、菱櫓・橋爪門・橋爪門続櫓・五十間長屋が復元完了し、金沢城公園と改称された。
2006年(平成18年) 日本100名城に選定された。
典型的な平山城で、櫓を多用した構造になっている。
また、瓦には冬の積雪に耐えられるように、軽量であり、また、有事には鉄砲弾にもなる鉛瓦が用いられた。
本丸・二の丸・三の丸があったが、天守や三階櫓の焼失後は二の丸を藩主の居所とした。天守は再建されなかった。
あまり堅固な城とは言えず、有事の際は城下町にて敵を迎え撃つため軍事拠点として多くの寺が建立された。
そのうちのひとつ、妙立寺(通称忍者寺)の井戸には金沢城に通じる抜け穴があるとされる。
城の周囲には、大手堀、いもり堀、百間堀(ひゃっけんぼり)、白鳥堀(はくちょうぼり)が存在した。
現存するのは大手堀のみで、他の3つの堀は明治時代末から大正時代にかけて埋め立てられ道路などになった。

















金沢城公園
http://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kanazawajou/johshi/index.html
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