小岩嶽城


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 小岩嶽城跡(こいわたけ )                        09.08.07
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長野県安曇野市穂高有明

種別:山城
築城時期:不明
築城者: 仁科(古厩)氏
主要城主: 古厩氏
 
別名:小岩岳城、古厩小屋

中世の弓矢を武器にしていた頃の城で、1551年(天文20)に武田軍に攻められ、翌年落城した。
古厩郷の領主・仁科氏庶流の古厩氏の居城であったと言われる。

本郭は1平方キロメートル、南北135m,東西40m、北に天満沢、南に富士尾沢と空堀を控えた自然の要害。


・仁科氏の一族が南方の守備のために築いたものと思われ、のちに仁科氏庶流の古厩氏の管理となった。
・天文二十(1551)年十月十四日、村上義清は仁科氏の属城であった丹生子城を攻め落とした。
・この報を受けた武田晴信(信玄)は十月十五日に甲府躑躅ヶ崎館を出陣、二十日に深志城に入り、二十四日小笠原軍の抵抗拠点となっていた平瀬城を攻撃、城将平瀬八郎左衛門以下二百四名を討ち取り平瀬城は落城、続いて十月二十八日に小岩嶽城を攻めたが落ちず、宿城に放火して引き揚げた。

・天文二十一(1552)年八月、武田晴信は小岩嶽城を攻撃、八月十二日に落城し、城主の古厩盛兼は自刃し、武田軍は首級を五百以上取り、数を知れないほどの捕虜を生け捕った。

・古厩氏はその後武田に降伏・出仕し、古厩盛隆は永禄四(1561)年の第四次川中島合戦にも参加している。

・天正十(1582)年三月の武田氏滅亡、同年六月二日の本能寺の変の後、小笠原貞慶が旧領回復に乗り出し松本城に入った。
・古厩氏は小笠原氏に従っていたようであるが、天正十一(1583)年二月十三日夜半、古厩氏(因幡守盛勝か)は「逆心」を企てたとして松本城内で成敗され、子息(盛隆か)は逃亡した。
・同二月十六日の小笠原貞慶の犬甘半左衛門宛書状によれば、同時期に成敗された塔原氏は「古厩小屋(小岩嶽城)」に兵糧を運び込み、塔原城には一俵の米もなかったこと、兵糧は全部松本城に移し、小屋を焼き払った、と報告されている。
・小岩嶽城はこの時点で廃城になったと思われる。



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