仙人奇行5

つれづれの史跡散歩

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一乗谷朝倉氏遺跡


今から約500余年前の文明3年(1471)、戦国大名・朝倉氏が5代103年間にわたって越前の国を支配した城下町跡。

最盛期には、人口1万人を超えたといわれ、雄大な城下町と雅やかな文化の華を咲かせた。

しかし、朝倉氏は天正元年(1573)に織田信長に敗北。火を放たれ、その長い歴史の幕を閉じた。

そして、昭和42年、初めて本格的な発掘調査が行われて以来、当主の館や武家屋敷・寺院・町屋・職人屋敷や道路に至るまで町並がほぼ完全な姿で発掘。

昭和46年には、国の「特別史跡」に指定、




特別史跡・特別名勝

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一乗谷朝倉氏遺跡                     11.07.23
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福井県福井市城戸ノ内町ほか

・一乗谷朝倉氏遺跡は、福井県福井市城戸ノ内町にある戦国時代の遺跡である。

・戦国時代に一乗谷城を中心に越前国を支配した戦国大名朝倉氏の遺跡。

・一乗谷城(山城)と山麓の城下町(朝倉氏および家臣の居館)からなる。

・遺跡全体(面積278ヘクタール)が国の特別史跡で、そのうち4つの日本庭園は一乗谷朝倉氏庭園の名称で国の特別名勝の指定を受けている。




・福井市街の東南約10キロメートル、九頭竜川水系足羽川支流である一乗谷川下流沿いの細長い谷あい(一乗谷、東西約500メートル、南北約3キロメートル)に築かれた戦国時代の城下町と館跡および背後の山城が一乗谷朝倉氏遺跡である。

・一乗谷は、東、西、南を山に囲まれ、北には足羽川が流れる天然の要害で、周辺の山峰には城砦や見張台が築かれ、地域全体が広大な要塞群であった。

・また、三国湊に続く足羽川の水運や大野盆地に通じる美濃街道、鹿俣峠を抜け越前府中へ続く街道などが通り交通の要衝でもあった。

・一乗谷の南北に城戸を設け、その間の長さ約1.7キロメートルの「城戸ノ内」に、朝倉館をはじめ、侍屋敷、寺院、職人や商人の町屋が計画的に整備された道路の両面に立ち並び、日本有数の城下町の主要部を形成していた。

P7232117一乗谷朝倉遺跡



◎歴史

・「朝倉家伝記」や「朝倉家記」などの新資料によると、朝倉氏は南北朝時代には、一乗谷を本拠にしていたようである。

・文明年間には重臣が一乗谷に集住するようになり、また、足利将軍家の分家である鞍谷公方などもいたことから応仁の乱により荒廃した京から、多くの公家や高僧、文人、学者たちが避難してきたため一乗谷は飛躍的に発展し、華やかな京文化が開花した。

・このため北ノ京とも呼ばれた。戦国4代朝倉孝景の頃から全盛期を迎え、最盛期には人口1万人を超え、越前の中心地として栄えていた。

・1499年(明応8年)には足利義稙が朝倉貞景を頼り来訪する。

・1567年(永禄10年)11月21日には戦国5代朝倉義景が足利義秋を安養寺に迎える。
・義景は義秋を歓待するが、同年7月24日、義昭は上洛を果たすため織田信長を頼って美濃国に出国する。

・1573年(天正元年)8月16日、刀禰坂の戦いに大敗した義景は一乗谷を放棄し大野へ逃れる。
・翌日、信長の軍勢によって火を放たれ一乗谷は灰燼に帰した。

・この戦の功績により信長から守護代職を与えられた朝倉氏旧臣の桂田長俊(前波吉継)が一乗谷に館を構え、越前を統治していた。
・しかし、同じ旧臣である富田長繁ら国人は長俊に反感を抱いており、民衆に一揆を起こさせるべく画策した。
・1575年(天正3年)1月18日、吉田郡志比庄で一揆が蜂起、翌日には長繁を先頭に坂井郡、吉田郡、足羽郡の一揆勢3万3千人が一乗谷に攻め入り、長俊は一族もろとも討ち取られた。

・信長が一揆を平定した後、越前八郡を与えられた柴田勝家は本拠を水運・陸運に便利な北ノ庄に構えたため、辺境となった一乗谷は田畑の下に埋もれていった。



◎一乗谷城

・朝倉氏によって当主館の東側背後、西方に福井平野を一望できる標高473メートルの一乗城山に築城された中世山城。


◎唐門

・は朝倉館跡正面の堀に面して建つ、幅2.3メートルの唐破風造り屋根の門。
・朝倉氏の遺構ではなく、のちに建てられていた松雲院の寺門として朝倉義景の菩提を弔うために作られたと伝わる。
・門表には朝倉家の三ッ木瓜の紋が刻まれている。
・現存するものは江戸時代中期頃に再建されたものである。

P7232136一乗谷朝倉遺跡


◎朝倉館跡

・一乗谷の中心部に位置する朝倉家当主が居住した館である。
・西、南、北の三方を高さ1.2メートルないし3メートルほどの土塁で、その外側を幅約8メートル、深さ約3メートルの堀で囲んでいる。
・三方の土塁にはそれぞれ隅櫓や門があった。
・西方にある門が正門(御門)であり、現在は唐門が建てられている。
・平坦部の面積は約6,400平方メートルあり、内部には17棟の建築物があった。
・館内最大の常御殿(東西約21.4メートル、南北約14.2メートル)を中心に、南側には主殿や会所・数寄屋・庭園・花壇など接客用の施設群が、北側には台所や持仏堂・湯殿・蔵・厩など日常生活のための施設群が存在した。
・建物はすべて礎石に角柱を立てて建てられており、屋根はこけら板等を葺いていたと考えられているが、鬼瓦や棟石等も発掘されている。
・舞良戸や明障子などの引き戸を多用し、畳を敷きつめた部屋も多かったとされる。

・1968年(昭和43年)に常御殿の南側中庭で花壇の遺構が発見された。東西9.8メートル、南北2.8メートルの長方形をなし、花粉分析等により、春にはシャクナゲやボタンなどが、秋にはキクやハギなどが植えられていたことが判明した。

P7232144一乗谷朝倉遺跡


◎中の御殿跡中の御殿跡
・義景館跡の南隣にあり、空堀を隔てて湯殿跡庭園とほぼ同じ高さの場所にある。足利義秋から従二位に叙せられた朝倉義景の母である光徳院が居住したと伝えられている御殿跡。

◎城下町
・復原町並南北を城戸に囲まれた約1.7キロメートルの谷間に形成されていた。
・100尺(約30m)を基準に計画的に町割がなされた町並みは京都のように整然としていたようである。
・1995年(平成7年)には発掘結果や史料等を参考に200メートルにわたって当時の町並みが復元され、復原町並として公開されている。

P7232132一乗谷朝倉遺跡

P7232130一乗谷朝倉遺跡


◎安養寺跡
・朝倉敏景が1473年(文明5年)に一乗谷東新町に建立した浄土宗の寺。
・開山は顕要。1488年(長享2年)8月には越前府中に滞在していた真盛(天台宗真盛派の祖)が朝倉貞景の招きに応じてこの寺で説法を行い、貞景は真盛に帰依した。
・1547年(天文16年)頃には一乗谷に滞在していた清原宣賢が「大学」、「中庸」などを講じた。
・1567年(永禄10年)には朝倉義景が足利義秋をこの寺で迎えた。この寺の隣に義秋の御所が造られた。
・朝倉氏が滅亡した後、1575年(天正3年)に北ノ庄へ移った。
・一乗谷時代の寺院遺構は朝倉館の一乗谷川対岸に位置する平面復元地区で確認されている。

P7232142一乗谷朝倉遺跡


◎城戸
・一乗谷を防御するため、城下町の南北に土塁を築いて城門を配した。京に近い南側は上城戸、北側は下城戸と呼ばれる。
・この間の約1.7キロメートルの「城戸ノ内」に朝倉館や侍屋敷などがつくられ城下町の主要部を形成していた。
・下城戸は東西の山が狭まった谷の入り口に設けられた。現在は幅18メートル、高さ5メートル、長さ20メートルの土塁が残っている。枡形虎口である門跡には重さ10トン超の石が積み上げられている。なかには40トンを超す巨石もある。また、城戸の外側には幅10メートル、深さ3メートルの堀があり、かつては一乗谷川と直接繋がっていたと考えられている。
・上城戸は現在は幅13メートル、高さ5メートル、長さ50メートルの土塁が残存している。巨石は残っていない。外堀も設けられていた。

P7232116一乗谷朝倉遺跡
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  1. 2012/02/06(月) 13:03:44|
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