川手城
女子高校の校庭なのでちょっと男ははいりづらい、相棒の女性にちょっと写真撮ってきてよ..ってなことに
川手城(革手城)
岐阜県岐阜市下川手
土岐源氏歴代11代の守護職の居城
川手城跡(革手城)はJR岐阜衛から南東に2kmほどのところ、下川手にある。
現在は済美女子高校の校庭の一隅に土塁があり、川手城跡の碑が立つのみである。
全盛時は3代守護職土岐頼康が美濃・尾張・伊勢3ヵ国の守護職となる。
頼康は、8キロほど北の長森城では狭くなったため、正平8年(1353)この地下川手に城を築き移った。
この城は旧木曽川と現荒田川を改修し天然の地の利を生かした広大な城地で、七堂伽藍を持つ霊薬山正法寺・源氏の守護神八幡神社をはじめ、神社仏閣、数多くの平屋建築、城郭というより御殿風(都風)の建物であったと推察される。

以降、革手城は11代まで歴代の守護職の居城となる。
●歴代 美濃国守護職(1353〜1547)
・第1代 土岐頼貞 ・第2代 土岐頼遠 ・第3代 土岐頼康 ・第4代 土岐康行 ・第5代 土岐頼忠
・第6代 土岐頼益 ・第7代 土岐持益 ・第8代 土岐成頼 ・第9代 土岐政房 ・第10代 土岐政頼
・第11代 土岐頼芸
革手城が都風となって繁栄したのは、建武の新政の失敗と応仁の乱である。
都を追われた公家・百官・天上人が地方の守護職を頼って寄宿したことにある。
これらの人々を受け入れるだけの余裕があったのは西の大内氏(山口)と東の土岐氏(革手)である。
これらの人達は、都に帰る日を待ちながら詩歌・蹴鞠・能楽など、都文化の花を咲かせた。
こうして築かれた革手府文化は、明応3年(1494)の船田の乱によって3日3晩燃え続ける戦乱によって灰塵となった。
天文元年(1532)に土岐政頼は、鷺山城主土岐頼芸に攻められ政頼は越前へ退散し、替わって土岐頼芸が守護の座に着いた 。
しかし、その頼芸も斎藤道三によって追われてしまい、道三が美濃の国主となった。
斎藤道三は稲葉山城(岐阜城)に本拠を持ち、革手城は廃城となった。
徳川家康は加納城築城に革手城の土砂まで使用し、革手城は跡形もなくなった。
当地は城域のほぼ北隅の地と推察している。

