推古天皇陵
◎推古天皇陵(磯長山田陵)
大阪府南河内郡太子町大字山田
・3段築成の方墳
・東西61m、南北55m、高さ12m。周囲に幅7mの空濠を巡らす。
・「王陵の谷」の中で小島のように盛り上がっているため四方からその整った美しい姿を望むことができる。
・聖徳太子を摂政にわが国初の女帝となった推古天皇とその子竹田皇子の合葬陵とされ、古い記録による と 石室内に二つの石棺が安置されているという。
・最初、奈良県橿原市の植山古墳に葬られ、後にこちらへ移葬されたらしい。(下記参照)
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推古天皇と息子か? 奈良県の植山古墳で巨大石室2基出土 (2000.8.17)
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・奈良県橿原市の植山古墳から、飛鳥時代の豪族・蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳(奈良県明日香村)に匹敵する巨大な横穴式石室が2基出土した。
・築造時期や場所、規模からみて、聖徳太子(574―622年)のおばである推古天皇(554―628年)と、その息子の竹田皇子(生没年不明)の合葬墓である可能性が高。
・宮内庁指定の推古天皇陵は聖徳太子ゆかりの大阪府太子町にあるが、同天皇は死後、竹田皇子と一緒に橿原付近の古墳に葬られ、後に太子付近へ移葬されたとの記述が日本書紀と古事記にあり、これを裏付ける発見という。
・天皇陵は宮内庁が内部調査を認めておらず、天皇の墓の実態を知ることのできる極めて重要な資料という。
・植山古墳は東西約40メートル、南北は現存約27メートルの長方形墳。
・南側を入り口とする全長約17メートルの石室が、約8メートル離れて2基並んでいた。
・1つの墳丘に2基の石室を備えた「双室墳」は、推古朝前後の時期の特徴という。
・東側の石室は、その形や出土土器から6世紀末に築かれた竹田皇子の墓とみられる。
・玄室(げんしつ=棺を収める部屋)は幅約3メートル、長さ約6.5メートルあり、石舞台古墳の玄室(幅3.5メートル、長さ7.5メートル)に匹敵する規模だった。
・玄室の中央には、幅約1.5メートル、長さ約2.5メートル、高さ約1.7メートルの家形石棺があった。
・西側の石室は、やはり土器などから7世紀前半に造られたとみられ、推古天皇が葬られたらしい。
・玄室は幅約2.5メートル、長さ約5メートル。中に石棺はなかったが、その石材の一部が残っていた。石棺は後に運び出されたらしい。
・この石室には、玄室と羨道(せんどう=玄室と外部とをつなぐ通路)を仕切る扉がついていたことを示す「敷居石」が、床にあった。
・全長約2.5メートル、幅約1.3メートルの小判形で、直径約21センチのくぼみがあり、ここに扉の軸を差し込んで開閉したらしい。
・「日本書紀」には、竹田皇子が亡くなり、「大野岡」に墓が築かれた。
・その後亡くなった推古天皇は、生前の希望で、竹田皇子の墓に合葬された――との記述がある。
・「大野岡」の地名は残っていないが、ほかの文献から植山古墳付近とみられていた。
・「古事記」は、推古天皇の墓はその後、科長(しなが=現在の大阪府太子町付近)に移されたと記している。
・宮内庁は太子町にある、やはり長方形の山田高塚古墳(東西約63メートル、南北約55メートル)を推古天皇陵に指定している。
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◎第33代 推古(すいこ)天皇
・諡名:豊御食炊屋姫天皇(とよみけかしきひめのすめらみこと:日本書紀)、豊御食炊屋比売命(とよみけかしきひめのみこと:古事記)、
・異名:額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)
・誕生:欽明15年(554)〜 推古36年(628)75歳
・在位:崇峻5年(592)〜 推古36年(628)
・父 :欽明天皇 第三皇女
・母 :蘇我稲目の娘、堅塩媛(きたしひめ)
・夫 :敏達天皇(訳語田渟中倉太珠敷尊:おさだのぬなくらふとたましきのみこと)
・皇子女:菟道貝蛸皇女(聖徳太子妃)、竹田皇子(夭折)、小墾田皇女(押坂彦人大兄皇子妃)、尾張皇子、守皇皇女、田眼皇女(舒明天皇妃)、桜井弓張皇女
・宮居:豊浦宮(とよらのみや:奈良県明日香村豊浦)、小墾田宮(おはりだのみや:奈良県高市郡明日香村)
・御陵:磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ:大阪府南河内郡太子町)
・18才で異母兄敏達帝の皇后となり、34才で未亡人。その間敏達天皇との間に2男5女をもうける。蘇我馬子の姪にあたる。
・異母弟の崇峻天皇崩御後、蘇我馬子の擁立によって我が国最初の女帝となった。
・電光石火行われたこの即位についてはさまざまな見解がある。しかもわが国初の女帝の誕生である。
・崇峻帝が馬子に暗殺された1ケ月後に、さしたる混乱もなく天皇の位についている。
・蘇我馬子−推古女帝−聖徳太子。このラインが、推古即位前に既に成立していたと見るむきもある。
・崇峻天皇の暗殺は、推古女帝−聖徳太子も承知していたという説もある。
●記紀に残る推古天皇即位前後の状況
・敏達天皇崩御。
・後継者として橘豊日大兄皇子(欽明天皇と蘇我堅塩姫の子、額田部皇女の同母兄)と泥部穴穂部皇子(欽明天皇と蘇我小姉君(堅塩姫の妹)の子)が候補に登った。
・穴穂部皇子は敏達天皇の殯宮(もがりのみや:天皇遺体の安置所)で額田部皇后を犯そうとし、三輪逆(みわのさかし)のよって妨害される。
・結局後継者は豊日大兄皇子となり、用明天皇として即位するのだが、穴穂部皇子は蘇我氏一族にもかかわらず物部守屋(もののべのもりや)に接近し、三輪逆を殺害してしまう。
・用明天皇は在位2年で没し、穴穂部皇子は蘇我氏により殺され、蘇我と物部の対立は激化していく。
・皇位は穴穂部皇子の同母弟の泊瀬部皇子(はつせべのみこ:崇峻天皇)が受け継ぐ。
・その即位にあたっては、額田部皇女の馬子への強い推挙があったとも言われる。
・額田部皇太后は、長女の菟道貝蛸皇女を厩戸皇子(聖徳太子)に、次女の小墾田皇女を彦人大兄皇子に嫁がせる。
・その後、崇峻天皇は蘇我馬子と対立し、馬子の放った刺客、東漢直駒(やまとのあやあたいこま)に暗殺される。
・そしてその後継者として額田部皇太后自身が推挙されるが、額田部皇太后は固辞し続け、再三の群臣達の願いにより即位した。
・我が国初の女帝「推古天皇」の誕生である。
・推古天皇の在位は36年におよび、これは古代の天皇の在位年数で言えば驚くべき年数である。
・甥である厩戸皇子(うまやどのおうじ:聖徳太子)を皇太子とし、合わせて摂政に任じ、すべての政務を厩戸皇子に行わせた。
・この天皇記は、多くの記事が聖徳太子の活躍で占められている。
・「冠位十二階」や「十七条の憲法」の制定・施行、遣隋使の派遣など積極的な外交を行った。
・斑鳩寺(後の法隆寺)の造営、『国記』『天皇記』の編纂を命じるなど、文化事業にも力を入れた。
・また仏教を信じ、推古天皇も熱心な信徒であったとされる。
・実質的な政治は全て厩戸皇子によって行われたとされるが、これについては幾つか異論もある。
・おそらく推古天皇は、蘇我馬子と聖徳太子を併用することにより、微妙な政務のバランスを取っていたのではないかと思われる。
・聖徳太子が崩御すると、蘇我馬子は政治的に台頭し専横的な行為がめだってくる。
・しかし推古天皇はそれを押さえ、太子の引いた路線を押し進む。
・推古女帝が、蘇我馬子から個人的に公の土地を所望され、これをきっぱりと断ったという逸話が残されている。
・そこには全てを委任するだけの女帝とは一線を画する確固たる意志をもった人物像が見える。
・「自分も蘇我の血を引く天皇であり、今まで散々貴方には便宜を図ってきたが、ここで貴方の言い分を聞いてその通りにしたら、私は愚帝として後世に残り、貴方も不忠という烙印を押されるであろう。」
・太子が心おきなく国政を行えたのは、この女帝の後ろ盾があったからこそと言えるだろう。
・女帝は馬子の専横を、太子を重用する事によって押さえていたのだろう。
・馬子も、さらなる流血にはもう嫌気がさして、この女帝の治世の元、あまんじて有力者の地位のままで納得していたのではないだろうか。
・数々の善政を行ったとされる聖徳太子は、天皇となることなく49才で世を去るが、推古天皇はその後馬子の死も看取り、75才で崩御するまでさらに6年在位した。
・死期の迫った女帝は、孫の田村皇子(後、舒明天皇)を枕元に呼び、皇位に就くことの困難さを説き、謹んで物事をよく見通すように諭した。
・同様に聖徳太子の子、山背大兄(やましろのおおえ)にはよく人の意見を聞くように忠告したが、ついに後継者を明言することはなかった。
・権力策謀の裏面を見続けた女帝は、末期の遺言通り、幼くして逝った竹田皇子と同じ陵に葬られている。
・太子町はその御陵の多さから「王陵の谷」とか「王家の谷」と呼ばれる事もある。
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*古事記は推古天皇の埋葬記事をもって完結している。
*日本書紀は舎人親王が編纂したものであるから父の天武天皇および持統天皇の御代を持って完結している。
参照
http://inoues.net/tenno/suiko-tenno.html

