河内源氏の里
◎通法寺(つうほうじ)
大阪府羽曳野市壷井通法寺
・河内源氏の菩提寺
・源頼信 − 頼義 − 義家 三代の墓
・山門羽曳野市壷井は河内源氏発祥の地として知られている。
・壷井通法寺は、長久4年(1034年)に河内国司であった源頼信が小堂を建てたことから始まりる。
・前九年の役の時、東北地方で活躍した源頼義が浄土宗に帰依し阿弥陀仏を本尊としたことから河内源氏の菩提寺となり源氏の隆盛と共に栄えた。
・南北朝時代には、戦火により焼失。
・江戸時代になって源氏の子孫 多田義直が5代将軍綱吉に願い出て柳沢吉保らが普請奉行となり再興する。
・明治時代に廃仏毀釈により現在のような山門,鐘楼などを残すのみとなる。
・なお、ここには源頼義の墓があり、東方約200mの丘陵地には父 頼信と子 義家の墓もある。
●番外
頼信の墓の左手に小さな墓があるが、これが江戸時代5代将軍綱吉の頃、綱吉の母桂昌院の帰依を背景に絶大の権力を持って「生類哀れみ令」を行わせた有名な大僧正隆光の墓である。
綱吉の死後、左遷されて通法寺の住職になったのでここにも墓があるが、正式の墓は奈良市佐保にある。
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◎源 頼信(みなもと の よりのぶ、安和元年(968年) - 永承3年4月17日(1048年6月1日))
・平安時代中期の武将。
・摂津国多田(現・兵庫県川西市多田)の地に源氏武士団を形成した源満仲(多田満仲、多田新発意)の三男。
・摂津源氏の源頼光や大和源氏の源頼親の弟。
・母は正室、大納言藤原元方女もしくは藤原致忠女。
・子は頼義、頼清、頼季、頼任らがあり、嫡男は頼義。
・官位は従四位上河内守。贈従二位。
・河内国石川郡壷井(現・大阪府羽曳野市壷井)を本拠地とする河内源氏の祖。
・兄・頼光と同じく摂政関白の藤原道兼に、道兼の死後は藤原道長に仕え、諸国の受領や鎮守府将軍などを歴任する。
・河内国に土着して石川郡に壺井荘を拓き、香炉峰の館を建てる。
・甲斐守在任時に平忠常の乱を平定し、その後の河内源氏の東国進出の第一歩を記す。
・武勇に優れ、平維衡・平致頼・藤原保昌らと藤原道長の四天王、或いは四天王と称された。
・それまで四年間、平直方と争っていた忠常があっさり降伏したのは、それ以前に頼信との間で主従関係になっていたためと思われる。
・この乱の後、坂東の武士たちは河内源氏と主従関係を結ぶようになり、後の東国支配と武家源氏の主流となる礎を築く。そして、その威光は子の頼義、孫の義家へと継がれていく。
官歴
987年(寛和3年)2月19日、左兵衛少尉に任官。
999年(長保元年)9月2日、上野介に任官。
1001年(長保3年)2月26日、上野介を退任か?
1012年(長和元年)、時に前常陸介(御堂関白記閏10月23日条)
1023年(治安3年)8月、鎮守府将軍に任官。
1028年(長元元年)、時に前伊勢守(左経記6月21日条)
1029年(長元2年)、甲斐守に任官。
1031年(長元4年)1月6日、従四位下に昇叙し、甲斐守如元。
1032年(長元5年)2月8日、美濃守に遷任。
1036年(長元9年)10月14日、相模守に遷任。
1047年(永承2年)、従四位上に昇叙し、河内守に任官。
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◎源 頼義(みなもとの よりよし、永延2年(988年) - 承保2年7月13日(1075年8月27日))
・平安時代中期の武将。
・源頼信の子で河内源氏二代目。
・弟に源頼清、源頼季、源頼任らがある。
・八幡太郎義家、賀茂次郎義綱、新羅三郎義光らの父。
・鎮守府将軍、位階は贈正三位。
生涯
・河内源氏初代の源頼信の嫡子として河内国古市郡壷井(現・大阪府羽曳野市壷井)の香炉峰の館に生まれる。
・弓の達人で若い頃から武勇の誉れ高く、長元3年(1030年)には父の頼信とともに平忠常の乱(長元の乱)を平定し、父頼信の後を継いで河内源氏の東国(関東地方)への進出を図る。
・忠常の討伐に失敗した平直方の娘を娶り、鎌倉の直方の屋敷を譲り受ける。以後、その鎌倉の屋敷が河内源氏の東国支配の拠点となる。
・藤原登任の後任として陸奥守・鎮守府将軍となり、永承6年(1051年)から東北地方攻略のための俘囚長安倍氏に向けた前九年の役では、一度は朝廷に服従した安倍頼時(頼良)を挑発してふたたび挙兵させる。
・しかし、藤原経清などの離反もあり、黄海(きのみ)の戦いで大敗。その後、出羽の豪族の清原氏の協力を得て安倍氏を討つ。
・この戦乱は陸奥への河内源氏勢力拡大のためのものであったが、頼義は、戦後、朝廷より伊予守に叙任されて陸奥守への再任に失敗し、清原氏に陸奥の支配権を譲る形で帰京。
・承保2年(1075年)に没、享年87。
・河内源氏の氏神である石清水八幡宮を勧請して、壷井八幡宮(大阪府羽曳野市)と鶴岡若宮(鶴岡八幡宮の前身。神奈川県鎌倉市。)を創建した。
・墓所は大阪府羽曳野市の河内源氏の菩提寺だった通法寺跡にある。
官歴
1028年(長元元年)10月14日、相模守に任官。
1051年(永承6年)、陸奥守に任官。
1053年(天喜元年)、鎮守府将軍を兼任。
1056年(天喜4年)12月29日、陸奥守を更任。
1062年(康平5年)、陸奥守任期満了。
1063年(康平6年)2月25日、従四位下に昇叙し、伊予守に任官。
1065年(治暦元年)9月1日、剃髪し、信海と号す。
1075年(承保2年)8月27日、卒去。享年87。
1915年(大正4年)11月10日、贈正三位。
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◎源 義家(みなもと の よしいえ)生誕 長暦3年(1039年)死没 嘉承元年7月4日(1106年8月4日)
・平安時代後期の武将で、河内源氏の源頼信の孫。
・八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)という呼び名でも知られる。
・後に武家政権鎌倉幕府を開いた源頼朝、そして室町幕府の足利尊氏の祖先に当たることから後世に英雄視され、様々な逸話が生み出される。
・比叡山等の強訴の頻発に際し、その鎮圧や白河天皇の行幸の護衛に活躍するが、陸奥守となったとき、清原氏の内紛に介入して後三年の役を起こし、朝廷に事後承認を求めるが、朝廷は「私戦」として官符を下さなかった。
・ その後約10年間は閉塞状態であったが、白河法皇の意向で院昇殿を許されたが、中御門右大臣・藤原宗忠はその日記『中右記』承徳2年10月23日条に「義家朝臣は天下第一武勇の士なり。昇殿をゆるさるるに、世人、甘心せざるの気あるか」と書く。
・その活動時期は摂関時代から院政時代に移り変わる頃であり、政治経済はもとより社会秩序においても大きな転換の時代にあたる。
・このため歴史学者からは、義家は新興武士勢力の象徴ともみなされ、後三年の役の朝廷の扱いも「白河院の陰謀」「摂関家の陰謀」など様々な憶測がされてきた。
・生前の極位は正四位下。
●出生と没年
・生没とも諸説あってはっきりしないが、68歳で死去とする史料が多く、またその没年は、史料としての信頼性が最も高い『中右記』1106年(嘉承1)7月15日条から逆算し、1039年(長暦3)の生まれとする説が有力である。
・源頼義の長男として、河内源氏の本拠地である河内国石川郡壷井(現大阪府羽曳野市壷井)の香炉峰の館に生まれたという説、鎌倉で生まれたとの説もあるが、いずれも伝承の域を出ない。
・幼名は不動丸、または源太丸。
・七歳の春に、京都郊外の石清水八幡宮で元服したことから八幡太郎と称す。
●前九年の役から下野守まで
・鎮守府将軍、陸奥守に任ぜられた父頼義が安倍氏と戦った前九年の役では、1057年(天喜5)11月に数百の死者を出し大敗した黄海の戦いを経験。
・その後出羽国の清原氏の応援を得て父頼義はやっと安倍氏を平定する。
・1063年(康平6)2月25日に義家はその勲功を賞され従五位下出羽守に叙任される。
・尚、この年、義家は在京しており美濃において美濃源氏の祖源国房と合戦している。
・1070年(延久2)義家は下野守となっており、陸奥国で印と国庫の鍵を盗んだ藤原基通を捕らえたことが『扶養略記』8月1日条に見える。
・当時の陸奥守は大和源氏の源頼俊で、即位間もない後三条天皇が源頼俊らに北陸奥の征服を命じており、北陸奥の征服自体は成功したが、この藤原基通の件の為か大和源氏源頼俊には恩賞はなく、その後の受領任官も記録には見えない。
●白河帝の爪牙
・1079年(承暦3)8月 美濃国で源国房と闘乱を起こした右兵衛尉源重宗(清和源氏満正流4代)を官命により追討。
・1081年(永保1)9月14日に検非違使とともに園城寺の悪僧を追補 (『扶桑略記』)。
・その年の10月14日には白河天皇の石清水八幡宮行幸に際し、その園城寺の悪僧(僧兵)の襲撃を防ぐために、弟・源義綱と二人でそれぞれの郎党を率いてを護衛したが、このとき本官(官職)が無かったため関白・藤原師実の前駆の名目で護衛を行った。
・さらに帰りが夜となったので義家は束帯(朝廷での正式な装束)から非常時に戦いやすい布衣(ほい:常服)に着替え、弓箭(きゅうせん)を帯して白河天皇の乗輿の側らで警護にあたり、藤原為房の『為房卿記』には、「布衣の武士、鳳輦(ほうれん)に扈従(こしゅう)す。未だかつて聞かざる事也」と書かれている。
・同年12月 4日の白河天皇の春日社行幸に際しては義家は甲冑をつけ、弓箭を帯した100名の兵を率いて白河天皇を警護する。
・この段階では公卿達の日記『水左記』などにも「近日の例」と書かれるようになり、官職によらず天皇を警護することが普通のことと思われはじめる。
・のちの「北面の武士」の下地にもなった出来事である。この頃から義家・義綱兄弟は白河帝に近侍している。
●後三年の役
・1083年(永保3)に陸奥守となり、清原氏の内紛に介入して後三年の役がはじまる。
・ただしこの合戦は朝廷の追討官符による公戦ではない。
・朝廷では1087年(寛治1)7月9日に「奥州合戦停止」の官使の派遣を決定したりもし、『後二条師通記』にはこの戦争は「義家合戦」と私戦を臭わせる書き方がされている。
・後三年の役において動員した兵は、私的郎党として動員した近畿から美濃国、そして相模国の武者と、清原氏勢力外の陸奥南部の「国の兵共」。「地方豪族軍」として陸奥国奥六郡の南三郡を中心とした清原清衡の軍と、そもそもの発端の当事者であり、後三年の役では後半に加勢したらしい出羽国の吉彦秀武の軍からなると思われる。
・最大兵力は、戦場となった地元出羽国の吉彦秀武の軍、次ぎに当事者清原清衡の軍であり、国守軍は陸奥南部の「国の兵共」を加えたとしても、それほど多かったとは思えない。
・1087(寛治1)11月に義家は出羽国金沢柵にて清原武衡、清原家衡を破るが、「私戦」としたため恩賞はなく、かつ翌年1088年(寛治2)正月には陸奥守を罷免される。
●弟義綱
・1091年(寛治5)6月 義家の郎党藤原実清と源義綱の郎党藤原則清が、河内国の所領の領有権を争い、義家・義綱兵を構える事件がおき、京を震撼させた。
・弟義綱はその年1091年(寛治5)の正月に、藤原師実が節会に参内する際の行列の前駆を努めた他、翌1092年(寛治6)2月には藤原忠実が春日祭使となって奈良に赴く際の警衛、1093年(寛治7)12月には、源俊房の慶賀の参内の際に前駆を努めるなどが公卿の日記に見えるが、義家の方は1104年まで、そうした活動は記録にない。
・1093年(寛治7)10月の除目で、義綱は陸奥守にに就任。
・翌年の1094年(寛治8)には出羽守を襲撃した在地の開拓領主・平師妙(もろたえ)を郎党に追捕させ、従四位上に叙されて官位は兄義家と並び、翌年の1095年(嘉保2)正月の除目で、事実上陸奥よりも格の高い美濃守に就任する。
・その美濃における比叡山領荘園との争いで僧侶が死亡したことから、比叡山側は義綱の配流を要求して強訴に及ぶが、関白藤原師通は大和源氏の源頼治と義綱に命じてそれを実力で撃退する。
・このときも比叡山延暦寺・日吉神社側の神人・大衆に死傷者が出、比叡山側は朝廷を呪詛した。
・比叡山は天台密教の総本山であり、呪詛の最大の権威であって、朝廷にとっては最大の精神的脅威であったと思われる。
・それに追い打ちをかけたのが、その4年後の1099年(承徳3)6月に、当事者の関白藤原師通が38歳で世を去ったことであり、朝廷は比叡山の呪詛の恐怖におののいた。この件の影響か、このあと義綱が受領に任じられることはなかった。
●院昇殿から没まで
・後三年の役から10年後の1098年(承徳2)にやっと受領功過定を通って、4月の小除目で正四位下に昇進し、10月には院昇殿を許された。
・1101年(康和3)7月7日、次男対馬守源義親が、鎮西に於い太宰大弐大江匡房に告発され、朝廷は義家に義親召還の命を下す(『殿暦』)。
・しかし義家がそのために派遣した郎党の首藤資通(山内首藤氏の祖)は1102年(康和4)2月20日、義親とともに義親召問の官吏を殺害してしまう。
・12月28日ついに朝廷は源義親の隠岐配流を決定する。
・その後『中右記』によると、1104年(長治1)10月30日、義家・義綱はそろって延暦寺の悪僧追捕を行っているが、これが義家の最後の公的な活躍となる。
・1106年(嘉承1)には別の子の源義国(足利氏の祖)が、叔父の新羅三郎源義光等と常陸国において合戦し、6月10日、常陸合戦で源義家に実子義国を召し進ぜよとの命が下される。
・義国と争っていた源義光、平重幹等にも捕縛命令が出る。
・そうした中で義家は、1106年(嘉承1)7月15日に68歳で没する。


