応神天皇陵

応神天皇陵 (恵我藻伏岡陵)

 誉田御廟山古墳 (こんだごびょうやまこふん、誉田山古墳とも)

 大阪府羽曳野市誉田

古市古墳群の中心となる古墳。420メートルの墳丘の長さは、百舌鳥古墳群の大仙陵古墳に次ぐ巨大前方後円墳である。

・『古事記』に「御陵は川内の恵賀(えが)の裳伏(もふし)岡にあり」と記す。
・『書紀』に陵名の記載はないが、雄略紀に「蓬?丘(いちびこのおか)の誉田陵」と見える。
・『延喜式』諸陵寮に恵我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのみささぎ)。
・現在、同陵は大阪府羽曳野市誉田6丁目の誉田御廟山古墳(前方後円墳・全長425m・後円部高さ36m、もと二重に堀をめぐらしていた)に比定される。
・大仙陵古墳(仁徳天皇陵)につぐ(第2位の規模)5世紀初ともいわれる大前方後円墳。
・ただし考古学の絶対年代はよほど強力な資料などが出ない限り、常に浮動的であることに注意する必要がある。




古墳の概要

・5世紀末から6世紀初頭の築造と考えられている。
・立地条件は、必ずしもよいとは云えない。
・それは、土質の安定した段丘と不安定な氾濫源という異質の土地にまたがって墳丘を造営しているためという。
・また、造営前から二ツ塚古墳が存在しており、それを避けるように造ったため、周濠と内堤が歪んでいる。
・なお、前方部の一部が崩れているのは1500年代後半にこの地で直下型の大地震があったためと考えられており、
 前方部の崩落部分のほぼ真下を活断層が走っている。
・全長420mと墳丘長は大仙古墳に次ぐ大きさで、体積では143万3960立方メートルと日本一を誇る。
・後円部の直径267メートル、前方部の端での幅330メートルとそれぞれ大山古墳を上回る。

・周濠:周りには二重の堀をめぐらしており、広大な内濠の外には幅約48メートルの中提があり、その外に築造当時は幅約35メートルのもう一重の濠(外濠)のあった形跡があり、それを巡る外提は幅約15メートルあったと推定されている。
 濠の水深250〜170センチと大山古墳よりもずっと深い。

・副葬品:埴輪の種類が多い。
 円筒、キヌガサ、家、盾(たて)、甲(よろい)、草摺(くさずり)、水鳥など。内濠から土師器と共に魚形土製品が10個出土している。
 鯨、烏賊(いか)、蛸、鮫、海豚など。これらの土製品の解釈にはいろいろな説が為されている。
 円筒埴輪や円形埴輪、後円部側の外濠の外部で馬形埴輪なども出土している。木製の埴輪も副葬されていた形跡があるという。



陪墳:指定を受けているものは五基ある。残りが民有地であるため古墳の破壊が続いた。

・盾塚(たてづか)
  盾が10枚も埋めてあったのでこの名が付いた。
  帆立貝式古墳、誉田山古墳の北東の方角にあり、濠の外にある。
  埋葬施設は長大な割竹型木棺(わりたけがたもっかん)で、
   銅鏡、玉類、短甲、衝角付冑(しょうかくつきかぶと)、鉄製の刀剣や鏃(やじり)、
   筒型銅器、碧玉製釧(へきぎょくせいくしろ)、竹櫛(たけくし)、盾が10枚などが出てきた。
  前方部から、鉄製の刀、剣、矛(ほこ)が61本もまとまって出てきた。
  築造年代は、誉田山古墳より先行する可能性もある。

・珠金塚(しゅきんづか):方墳で、盾塚の西側にある。
  墳頂には、組合せ木棺を納めた二つの粘土槨があった。
  一方の棺には、銅鏡、玉類、短甲、衝角付冑、鉄製刀剣、竹櫛、盾などがあり、もう一方の棺にも銅鏡、玉類、短甲、鉄製刀剣などがあった。
  甲冑はいずれも鋲留式(びょうどめしき)。
  玉類の中に金製丸玉のものがあった。
  鋲留めという新しい技術、金製品もそれ以前には稀なものである。

・古市丸山古墳(ふるいちまるやまこふん)
  円墳で、その直径45メートルあり、円墳としては大規模。拝所の直ぐ近くにある。
  金銅製の鞍金具の馬具出土。
  木製の鞍に金の金具が閉じ付けてある。
  古墳出土の鞍の中でも最優秀品。
  横に連なった竜文の透かし彫りがある。
  伽耶(かや)高霊の古墳出土の文様に酷似しており、乗馬の道具が朝鮮半島からの舶載品を含んでいる。

・鞍塚(くらづか)
  円墳で、盾塚の北にある。
  箱形木棺から銅鏡、玉類、甲冑、武器、馬具など出土。
  築造年代は、盾塚や珠金塚より新しい。

古墳の南側に日本最古の八幡宮である誉田八幡宮、室町時代に描かれた「応神陵」造営から誉田八幡宮の建立や様々な功徳を述べた誉田宗廟縁起絵巻を所蔵している。
天皇陵の存在を前提にして発生・発達した神社である。

<Wikipedia>



********************************************************************************

◎第15代応神天皇(おうじん)天皇

・異称 : 誉田別皇子(ほむたわけのおうじ:日本書紀)/大鞆和気命(おおともわけのみこと:古事記)
・生没年: 仲哀天皇9年 〜 応神天皇41年 110歳(古事記では130歳)
・在位期間  神功皇后摂政69+1年 〜 応神天皇41年
・父 : 仲哀天皇 第四子
・母 : 気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと:神功皇后)
・皇后: 品蛇真若王(ほむだまわかおう)の娘、仲姫(なかつひめ)
・皇妃: 高城入姫(たかきのいりひめ:皇后の姉)、弟姫(おとひめ:皇后の妹)、宮主宅媛(みやぬしやかひめ)他
・皇子皇女: 荒田(あらた)皇女、大鷦鷯天皇(おおさぎきのすめらみこと:仁徳天皇)、根鳥皇女他
・宮 :軽島豊明宮(かるしまのとよあきらのみや:奈良県橿原市大軽町)
・陵墓:恵我藻伏岡陵(えがのもふしのおかのみささぎ:大阪府羽曳野大字誉田)

●神話
・朝鮮半島を攻めたとされている神功皇后が、朝鮮に赴いたとき胎内に宿していたのがこの応神天皇(誉田別尊:ほんだわけのみこと)と言われている。
・夫である仲哀天皇は、「新羅は金銀の宝庫である。」という神託を信じず崩御してしまうが、その妃である神功皇后によって朝鮮半島の制圧が企てられた。
・筑紫へ凱旋してきた神功皇后は、俄に産気づき皇子を産み落とす。
・この皇子が誉田別尊であり、それ故にこの地が産み(宇美)と名付けられたと言う。
・宇美は現在も福岡県宇美町として残っており、大分県の宇佐神宮は応神天皇を祭神とし、全国に約4万社ある八幡神宮の中心である。

・九州生まれの誉田別尊は瀬戸内海を東進し、近畿入りを阻む勢力をうち負かし、難波に上陸して応神天皇となり王権を打ち立てた、と書記は伝えている。
 *この逸話を以て、神武東征との共通点を指摘する意見は多い。何らかの勢力が九州から来て近畿に新王権を樹立したのだ、と言うのである。
 *「騎馬民族征服説」の江上波夫氏は、崇神天皇の時代に第一次の渡来が行われ、騎馬民族が朝鮮半島を経由して筑紫に来たという。
  ・その時のリーダーが崇神天皇で、それから何代か後に、応神天皇をリーダーとする集団が筑紫から近畿に入り、現在の天皇家につながる礎を築いたと主張している。
  ・従って、実在した最初の天皇は崇神天皇であるという事になる。
  ・神武東征はこの史実の反映だと言う。
  ・他にも、応神天皇が実際に九州から来たのだろうという意見を持つ学者も多い。
  ・書記は、応神天皇と朝鮮半島の強い結びつきを記述しているが、これらは、応神天皇もしくはその遠くない先祖達が朝鮮半島から来たのだという事を示していると言うのである。
  ・養蚕技術を伝えたとされる秦(はた)氏や、倭漢直(やまとのみやのあたい)氏の先祖達も渡来してきたと考えられており、一大集団が日本列島を目指して大陸・半島からやってきたことはほぼ確実である。
  ・高句麗の侵攻によって迫害された朝鮮半島の人々の集団は、多くの技術や文化をたずさえて日本列島へ渡来してきたのである。
  ・百済から渡来してきた学者の阿直岐(あちき)は優馬と太刀をもたらし、同じく学者の王仁(わに)は「千字文」と「論語」を伝えた。
  ・職工や機織り・酒造りの技術者なども多数来日し、日本文化の技術革新に多大の貢献をしたものと思われる。
  ・阿直岐、王仁はさまざまな典籍を日本に伝え、阿直岐史(あちきのふびと)の先祖であり、王仁は書首(ふみのおびと)」などの先祖にあたる。
  ・この他日本書紀の応神紀には、前朝に引き続いて竹内宿禰の活躍や、百済征伐譚や、蘇我氏の祖満智(まち)にまつわる話、大鷦鷯皇子(仁徳天皇)と大山守皇子を呼んで世継ぎに関するテストをした話など、色々と逸話を残している。
  ・天皇は多くの皇妃を抱えており、皇后の姉、妹も妃とする。日本書紀によれば、天皇の皇子女は20人、古事記によれば26人にのぼっている。
  ・いずれにしても、この時期に王権を巡る大規模な戦いが近畿地方において繰り広げられたと思われる。
  ・それはおそらく、渡来人とそれ以前の倭人達との間の争いもあっただろうし、渡来してきた渡来人同士の権力争いもあった。
  ・その中から、抜きんでて権力を確保した人物が後に「応神天皇」と呼ばれ、この地に葬られたと考えられる。

  ・江戸時代に、この応神陵は一度発掘されているが、その際、金メッキを施した馬具が出土しており、日本最古の馬具と言う見方もある。
  ・書記にも、応神天皇が百済より馬を貰ったという記述があり、この帝は乗馬の習慣を持っていたことがうかがえるのである。
  ・これらの事からこの応神天皇陵は、そのまま応神天皇の墓と比定してもいいのではないか、という意見が多い。
  ・またこの天皇の時代は、考古学上の画期点としても注目される。
  ・中期古墳時代を特徴づける鉄製の農具や武器が急速に普及したことが確認でき、記紀の記述を見ても、従来に比してかなりの史実性を帯びている事が見て取れるのである。
  ・天皇の異名、誉田別皇子(ほむたわけのおうじ)も、従来のものより現実的な名前になっており、河内王朝の様相も具体性が高く、この天皇の実在についてはその可能性が高いとされている。

  ・応神天皇は、有名な「宋書倭国伝」に登場する「倭の五王」のうち「讃」(さん)に比定される。
  ・次代の仁徳天皇をあてる場合もあるが、いずれにしても「仁徳王朝」の開始時期を5世紀前後とする学会の定説は間違いないものと思われる。

http://inoues.net/tenno/oujin.html

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

応神天皇(おうじんてんのう、仲哀天皇9年12月14日(201年1月5日) - 応神天皇41年2月15日(310年3月31日))
 第15代の天皇(在位:応神天皇元年(270年)1月1日 - 同41年(310年)2月15日)。別名、誉田天皇・誉田別尊(ほむたわけのみこと)。

●諸説
・実在性が濃厚な最古の大王(天皇)とも言われるが、仁徳天皇の条と記載の重複・混乱が見られることなどから、応神・仁徳同一説などが出されている。
・その年代は、古事記の干支崩年に従えば、4世紀後半となる。
・『記・紀』に記された系譜記事からすると、応神は当時の王統の有力者(女性を含む)を合成して作られたものと考えるのが妥当であるとする説がある。
・この実在の不確かさもあり、大王の実像をめぐっては諸説が出されてきた。
・応神の和風諡号である「ホムダ」は飾りの多い8代以前の天皇と著しく違っている事から実在とみなす説、三王朝交代説における征服王朝の創始者とする説、邪馬台国東遷説にまつわり皇室の先祖として祭られている神(宇佐八幡)とする説、河内王朝の始祖と見なす説などである。
・また、海外史料との相対比較から、『宋書』や『梁書』に見える倭の五王の讃に比定する説(ほかに仁徳や履中を比定する説もある)、「広開土王碑」に見える倭国の朝鮮進出を指揮した可能性も指摘されている。

●諡号
・『日本書紀』には、誉田天皇(ほむたのすめらみこと)・誉田別天皇(ほむたわけのすめらみこと)とあり、分注に去来紗別尊(いざさわけのみこと)とある。
・また、母の神功皇后の胎内にあったときから皇位に就く宿命にあったので、胎中天皇(はらのうちにましますすめらみこと)の敬称がある。
・『古事記』には、品陀和気命(ほむだわけのみこと)、別名は大鞆和気命(おおともわけのみこと)とある。
・この別名は天皇が生まれた時、その腕の肉が鞆(とも。弓を射る時に左腕に巻きつける道具)のように盛り上がっていた事に由来するという。
・『播磨国風土記』には、品太天皇(ほむだのすめらみこと)と表記。
・「上宮記」逸文には、凡牟都和希王(ほむたわけのみこ)と表記。

・応神天皇の名とされる「ホムダワケ」(『日本書紀』では誉田別、『古事記』では品陀和気と表記)は、実は生前に使われた実名だった、とする説がある。
・確実性を増してからの書紀の記述による限り、天皇に和風諡号を追号するようになったのは6世紀の半ば以降と見られる。
・とくに応神天皇から継体天皇にかけての名は概して素朴であり、ワカタケルのように明らかに生前の実名と証明されたものもある。

●系譜

天皇系図 8〜15代
天皇系図 15〜26代父は先帝仲哀天皇で、母は神功皇后こと息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)とされるが、異説も多い。
その理由は異常に出産が遅れたことにある。
父として「是に皇后、大神と密事あり」(住吉大社の神代記」)とある住吉大神や、あるいはまた武内宿禰とする考えもある。
このような出生の神秘性は、本来応神天皇が前王朝との血統上のつながりを持たず、新王朝の開祖であるとされたことを物語っているとするものもある。

皇后:仲姫命(なかつひめのみこと、中日売命。品陀真若王の女)
 子:荒田皇女(あらたのひめみこ、木之荒田郎女)
   大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、大雀命・仁徳天皇)
   根鳥皇子(ねとりのみこ)
妃:高城入姫(たかきのいりびめ、高木之入日売命。仲姫命の姉)
 子:額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ)
   大山守皇子(おおやまもりのみこ) 土形君の祖
   去来真稚皇子(いざのまわかのみこ、伊奢之真若命)
   大原皇女(おおはらのひめみこ)  『先代旧事本紀』には、弟姫所生とする。
   ?来田皇女(こむくたのひめみこ、高目郎女)
妃:弟姫(おとひめ、弟日売命。仲姫命の妹)
 子:阿倍皇女(あへのひめみこ)
   淡路御原皇女(あわじのみはらのひめみこ、阿具知能三腹郎女) 根鳥皇子の妃
   紀之菟野皇女(きのうののひめみこ、木之菟野郎女)
   滋原皇女(しげはらのひめみこ。『先代旧事本紀』より補う)
   三野郎女(みののいらつめ)
妃:宮主宅媛(みやぬしやかひめ、宮主矢河枝比売。和弭日触使主の女) 
  菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ、宇遅能和紀郎子) 応神天皇の皇太子
  矢田皇女(やたのひめみこ、八田皇女・八田若郎女)
  雌鳥皇女(めとりのひめみこ、女鳥王)
妃:小?媛(おなべひめ。宮主宅媛の妹)
 子:菟道稚郎女皇女(うじのわきいらつひめのひめみこ、宇遅能若郎女) 仁徳天皇の妃
妃:息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ、弟媛。河派仲彦王の女)
 子:稚野毛二派皇子(わかぬけのふたまたのみこ、若沼毛二俣王) 継体天皇の高祖父
妃:糸媛(いとひめ、糸井比売。桜井田部連島垂根の女)
 子:隼総別皇子(はやぶさわけのみこ、速総別命)
妃:日向泉長媛(ひむかのいずみのながひめ)
 子:大葉枝皇子(おおはえのみこ、大羽江王)
   小葉枝皇子(おはえのみこ、小羽江王)
   幡日之若郎女(はたびのわかいらつめ) 履中天皇の皇后・幡梭皇女に同人か
妃:迦具漏比売(かぐろひめ。須売伊呂大中日子王の女?)
 子:川原田郎女(かわらたのいらつめ)
   玉郎女(たまのいらつめ)
   忍坂大中比売、登富志郎女 この2皇女は竄入か
   迦多遅王(かたじのみこ、堅石王)
妃:葛城野伊呂売(かつらぎののいろめ。武内宿禰の女?)
妃:兄媛(えひめ。吉備御友別の妹)



●皇居
・都は軽島豊明宮(かるしまのとよあきらのみや、現在の奈良県橿原市大軽町か)。
・古事記には、軽島之明宮と見える。
・『日本書紀』によると、難波にも大隅宮(おおすみのみや。現在の大阪市東淀川区大隅、一説に同市中央区)が置かれたという。

●事績
・神功皇后の三韓征伐の帰途に宇瀰(うみ、福岡県糟屋郡宇美町)で生まれたとされる。
・神功4年(204年)に立太子。
・応神天皇元年(270年)に71歳で即位、同41年(310年)に111歳で崩御。『古事記』に130歳。

『古事記』に「この御世に、海部(あまべ)、山部、山守部、伊勢部を定めたまひき。また、剣池(つるぎのいけ)を作りき。また新羅人参渡(まいわた)り来つ。ここをもちて建内宿禰命引い率て、堤池に役ちて、百済池(くだらのいけ)を作りき」。『日本書紀』にも同様の記事が見え、応神五年八月条に「諸国に令して、海人及び山守を定む」、応神十一年十月条に「剣池・軽池(かるのいけ)・鹿垣池(ししかきのいけ)・厩坂池(うまやさかのいけ)を作る」とある。剣池は奈良県橿原市石川町の石川池という。
『古事記』に、百済の国主照古王(百済の近肖古王)が、雄雌各一頭を阿知吉師(あちきし)に付けて献上したとある。この阿知吉師は阿直史等の祖。また、横刀(たち)や大鏡を献上した。また「もし賢人しき人あらば貢上れ」と仰せになったので、「命を受けて貢上れる人、名は和邇吉師(わにきし)。すなわち論語十巻、千字文一巻、併せて十一巻をこの人に付けてすなわち貢進りき。この和爾吉師は文首等の祖。また手人韓鍛(てひとからかぬち)名は卓素(たくそ)また呉服(くれはとり)の西素(さいそ)二人を貢上りき」。『書紀』の十五年八月条と十六年二月条に同様の記事が見える。また、応神二十年九月条に「倭の漢直の祖阿知使主(あちのおみ)、其の子都加使主、並びに己が党類十七県を率て、来帰り」とあって、多くの渡来人があったことを伝えている。
後世、神功皇后と共に八幡神に付会され、皇祖神や武神として各地の八幡宮に祭られる。

<Wikipediaより>


コメント
コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する