仲哀天皇陵

仲哀天皇陵(岡ミサンザイ古墳 )

 恵我長野西陵(えがのながののにしのみささぎ)に葬られた。
 日本書紀に「河内国長野陵」、古事記には「御陵は河内の恵賀(えが)の長江にあり」とする。
 同陵は大阪府藤井寺市の岡ミサンザイ古墳(前方後円墳)に比定される。
 幅50m以上の周濠が巡らされているが、中世に城砦として利用されていたため、部分的に改変されている。

 墳丘全長 - 242m
 前方部 - 幅182m、高さ16.0m
 後円部 - 径148m、高さ19.5m、円頂部標高53.5m

 所在地 - 大阪府藤井寺市藤井寺4丁目(古市古墳群)


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・羽曳野丘陵の北東部外縁に築造され、墳丘長242mの前方後円墳。古墳の大きさでは全国18位。
・古墳時代後期の築造と思われる。
・大阪府藤井寺市に位置し、宮内庁により、仲哀天皇陵の比定されている。
・平成8年に実施された宮内庁による発掘調査で、墳丘は中世に城郭として利用され、大規模な改変を受けており、古墳本来の姿を大きく失っていることが判明した。

・前方部を南南西に向け、墳丘は三段築成で、くびれ部東側のみに造出しを備え、主軸線上で幅50mを測る、幅広の濠と堤を周囲にめぐらせている。
・墳丘には明瞭な葺石を施していない。
・内部施設や副葬品については不明だが、外堤上で実施された発掘調査では円筒埴輪列が確認されている。

・また、東側外堤上では、濠の掘削に伴う湧水を段丘崖に排水するため開削されたと推定される大規模な溝が検出され、大型前方後円墳の築造過程を理解する上で重要な成果となった。
・墳丘と外堤から出土した埴輪は共通の特徴をもち、窖窯で焼成された製品で、円筒埴輪のほか盾等の形象埴輪が出土している。
・築造年代は、墳丘に明瞭な葺石を施さないこと、出土埴輪の特徴が市野山古墳より新しいことなどから、5世紀後葉から末頃に比定され、市野山古墳(允恭陵)よりも新しくボケ山古墳(仁賢陵)よりも古い様相がうかがえる。
・仲哀天皇との年代とは一致しない。
・この陵は雄略天皇陵という意見が多い。



仲哀天皇(ちゅうあいてんのう、生年不詳 - 仲哀天皇9年2月6日(200年3月8日))

・『古事記』『日本書紀』に記される第14代の天皇(在位:仲哀天皇元年(192年)1月11日 - 同9年(200年)年2月6日)。
・足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)、帯中日子天皇(古事記)。
 **「タラシヒコ」という称号は12代景行、13代成務、14代仲哀の3天皇が持ち、ずっと下がって7世紀前半に在位したことの確実な34代舒明、35代皇極の両天皇も同じ称号をもつことから、タラシヒコの称号は7世紀前半のものであり、12,13,14代の称号は後世の造作ということになり、仲哀天皇の実在性には疑問が出されている(仲哀天皇架空説)。
神功皇后の夫・応神天皇の父とされるが、実在性を含めて諸事績の史実性には疑いが持たれる。


●系譜
日本武尊の第2子、
・母は垂仁天皇の皇女・両道入姫命(ふたじいりひめのみこと)。
・皇后:気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと、神功皇后。息長宿禰王の女)
  子:誉田別命(ほむたわけのみこと、応神天皇)
・妃:大中姫命(おおなかつひめのみこと。彦人大兄の女)
  子:?坂皇子(かごさかのみこ、香坂王)
  子:忍熊皇子(おしくまのみこ)
・妃:弟媛(おとひめ。来熊田造の祖・大酒主の女)
  子:誉屋別皇子(ほむやわけのみこ、古事記では神功皇后所生)

仲哀天皇系譜

●皇居
・穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや、山口県下関市長府宮の内町の忌宮神社が伝承地)
・筑紫橿日宮(つくしのかしいのみや、福岡県福岡市東区香椎の香椎宮が伝承地)

●事績
・叔父の成務天皇に嗣子が無く、成務天皇48年(178年)3月1日立太子。
・13年の皇太子期間を経て、仲哀天皇元年(192年)1月即位。

・天皇は父日本武尊にあこがれ、父の魂は白鳥になって天に昇ったと信じ、全国から白鳥を集め、父の陵の周囲にはなして心を慰めようとする。
・各地から白鳥が献上されてきたが、宇治川のほとりで、蘆髪浦見別王(あしかみのかまみわけのみこ)が献上途上の白鳥を、「白鳥も焼けば国鳥じゃ」といって略奪する。
・報告されて激怒した天皇は兵隊を送って蘆髪浦見別王を殺害した。
・その後、仲哀天皇は神功皇后を皇后とする。

・仲哀天皇2年2月、天皇は敦賀に移る。角鹿笥飯宮(つぬげのけひのみや)を造営し、淡路に屯倉(みやけ)を定めた。
・翌3月に天皇は南海道へ行幸し、徳勒津宮(ところつのみや)で各地からの朝貢を受けたが、熊襲は朝貢してこなかった。
・そこで熊襲を征伐する決意をし、敦賀から来る皇后と長門で落ち合い、穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや)から筑紫の橿日宮(かしいのみや)を目指した。

神功皇后は神託を告げる巫女のような役割を持っていたと考えられ、熊襲征伐の途上、「新羅を征伐せよ」との神託を受ける。
・それによれば、熊襲の土地は荒れておりわざわざ天皇が行く意味はない。
・それより海上の新羅は、まばゆいばかりの黄金で満ちあふれており、戦わずして手に入れられるばかりか、それによって熊襲も服従するであろうというものだった。
・神は天皇に、船を用意するよう告げた。
・しかし、仲哀天皇は山に登り大海原を見たがそのような国は見えないと神託を信じず、神の怒りに触れて、熊襲鎮圧途上に筑紫で急死した。
・神の怒りに触れて矢で腹を射抜かれたとか、琴を引いている時に急死したとか、武内宿禰が取りなしたとかいう話が伝わっているが、遺体は豊浦の地で仮埋葬され、後に藤井寺の方へ正式に埋葬されたと伝わる。
・『古事記』に「凡そ帯中日津子天皇の御年、五十二歳。壬戌の年の六月十一日に崩りましき」。
・『日本書紀』にも52歳とするが、これから逆算すると、天皇は父日本武尊の薨後36年目に生まれたこととなり、矛盾する。

・その後再び住吉大神の神託が下された。
・それは神功皇后の胎中の子(後の応神天皇)に宝の国を授けるとのことであった。
・皇后は神託に従い、身重のまま新羅を攻めたが、新羅王は戦わずして降服、朝貢を誓い、高麗・百済も朝貢を約したという。(三韓征伐)。
・「この御世に、淡道(あわじ)の屯家(みやけ)を定めたまひき。」(『古事記』)
・元年二月条に「即月に、淡路の屯倉を定む。」(『日本書紀』)
・屯倉は、朝廷直轄の農業経営地あるいは直轄領。王権の強化にも繋がった。

●仲哀天皇架空説
・歴史学者の間では、仲哀天皇は実在性の低い天皇の一人に挙げられている。
・その最も大きな根拠は、実在性のほとんど無い父(日本武尊)と妻(神功皇后)をもっている人物であるため、とされている。
・日本武尊の話は複数の大和地方の英雄の事跡を小碓命(おうすのみこと)一人にあてがって、一大英雄伝説に仕立て上げた物であり、神功皇后の話は白村江の戦いから、持統天皇による文武天皇擁立までの経緯をもとに神話として記紀に挿入された物である、としている。
・そしてこれらの架空の人物群とそれにまつわる物語とを史実として正当化するために、仲哀天皇が架空に作り上げられ記紀に挿入された、とするのが仲哀天皇架空説である。

・また、タラシナカツヒコ(足仲彦・帯中日子)という和風諡号から尊称のタラシヒコを除くと、ナカツという名が残るが、これは抽象名詞であって実名とは言えない(中大兄皇子のように、通常は普通名詞的な別名に使われる)。
・つまり、仲哀天皇の和風諡号は実名を元にした物ではなく、抽象的な普通名詞と言う事になる。
・さらに前述の通り、『日本書紀』では父日本武尊の死後36年も経ってから生まれたことになる不自然な証拠からも、仲哀天皇架空説は根強く言われている。

 

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