三十三間堂


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 蓮華王院 三十三間堂                                                  09.07.17
 http://sanjusangendo.jp/
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京都市東山区三十三間堂廻り町657                   TEL(075)561-0467


開門時間: 8時〜17時(11月16日〜3月は9時〜16時)(年中無休)
拝観料 :一般600円


・正式名は、蓮華王院、その本堂が「三十三間堂」と通称される。天台宗妙法院の境外仏堂。

・「三十三」という数は、観音菩薩の変化身三十三身にもとづく数を表している。

・平安後期、約30年の間、院政を行った後白河上皇が、自身の職住兼備の「法住寺殿」と呼ぶ院御所内に、当時、権勢を誇った平清盛の資財協力によって創建した。

・建長元年(1249)、市中からの火災により焼失し、鎌倉期・文永3年(1266)に再建された。

・地上16メートル、奥行き22メートル、南北120メートルの長大なお堂は、和様、入母屋造り本瓦葺き。




◎千手観音坐像(国宝)
 左右、計千体の等身観音立像に囲まれて、お堂中央に安置されるの丈六の坐像で「中尊・ちゅうそん」と呼ぶ。
 像高が3メートル余、檜材の寄木造りで全体に漆箔が施されている。
 42手で「千手・せんじゅ」を表わす通例の像形で、鎌倉期の再建時に、大仏師湛慶(たんけい)が、同族の弟子を率いて完成させたもの。


◎千体千手観音立像(重文)
 前後10列の階段状の壇上に整然と並ぶ等身大の1000体の観音立像は圧巻。
 各像は、頭上に十一の顔をつけ、両脇に40手をもつ通形で、中尊同様の造像法で作られている。
 千体の中、124体は、お堂が創建された平安期の尊像、その他が、鎌倉期に16年かけて再興された像。
 その約500体には作者名が残され、運慶、快慶で有名な慶派をはじめ、院派、円派と呼ばれる当時の造仏に携わる多くの集団が国家的規模で参加したことが伺える。

◎風神・雷神像(国宝)
 観音二十八部衆に風神・雷神を加えた30体の等身大の尊像が千体観音像の前に安置されている。
 その多くは、古代インドに起源をもつ神々で千手観音に従って仏教と、その信者を守るとされる。
 檜材の寄木造り、玉眼を用いた彩色像で、それぞれが迫真的な表情や姿態を見せる鎌倉彫刻の傑作。


◆通し矢と矢数帳
 その始まりは伝説的で不明ですが、桃山時代には、すでに行なわれていた。
 「通し矢」は、お堂西縁の南端から120メートルの距離を弓で射通し、その矢数を競ったもので、矢数をきめて的中率を競う「百射・千射」等がある。
 江戸時代、殊に町衆に人気を博したのは「大矢数」で、夕刻に始めて翌日の同刻まで、一昼夜に何本通るかを競うもの。
 慶長11年(1606)の浅岡平兵衛の試技以来の武芸者の栄誉をかけたものとなり、尾張、紀州の二大雄藩による功名争いは、人気に拍車をかけ、京都の名物行事となった。
 「矢数帳」には、最高記録は、貞享3年(1686)4月、紀州・和佐大八郎(試技年齢は18歳)の総矢13,053本、通し矢8,133本で、強靭な身心にしてこそ可能な凄絶な競技だったことが窺える。




耳塚


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 耳 塚                           09.07.16
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京都市東山区正面通本町東入る


京都にある耳塚(鼻塚)京都市東山区、豊国神社門前にある史跡で鼻塚とも呼ばれる。

16世紀末、天下を統一した豊臣秀吉がさらに大陸にも支配の手をのばそうとして、朝鮮半島に侵攻したいわゆる文禄・慶長の役(朝鮮史では、壬辰・丁酉の倭乱、1592〜1598年)にかかる遺跡である。

秀吉が引き起こしたこの戦争は、朝鮮半島における人々の根強い抵抗によって敗退に終わった。

塚の上に立つ五輪の石塔は、その形状がすでに寛永2年(1643)の古絵図にみとめられ、塚の築成から程ないころの創建と思われる。 

 

豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役1592年〜1598年)時、討ち取った朝鮮・明国兵の耳や鼻をはなそぎし持ち帰ったものを葬った塚。

古墳状の盛り土をした上に五輪塔が建てられ周囲は石柵で囲まれている。

昭和44年(1968年)4月12日、「方広寺石塁および石塔」として国の史跡に指定された。
当初は「鼻塚」と呼ばれていた。

しかし林羅山がその著書『豊臣秀吉譜』の中で鼻そぎでは野蛮だというので「耳塚」と書いて以降、耳塚という呼称が広まったようである。

この塚は慶長2年(1597年)に築造され、同年9月28日に施餓鬼供養が行われた。

この施餓鬼供養は秀吉の意向に添って相国寺住持西笑承兌が行った物で、京都五山の僧を集め盛大に行われたようである。

周囲の石柵は大正4年5月に歌舞伎役者をはじめとする当時の著名芸人達の寄付によって建立された物で、発起人は京都の侠客「伏見の勇山」と伝わる。

当時は戦功の証として、敵の高級将校は死体の首(漢語では頭のこと)をとって検分したが、一揆(兵農分離前の農民軍)や足軽など身分の低いものは鼻(耳)でその数を証した。
これをしないのを打捨という。

また、運搬中に腐敗するのを防ぐために、塩漬、酒漬にして持ち帰ったとされる。
検分が終われれば、戦没者として供養しその霊の災禍を防ぐのが古来よりの日本の慣習であり、丁重に供養された。

 

方広寺


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 方広寺                                               09.07.06
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京都市東山区正面通大和大路東入茶屋町527-4

拝観時間 09:00 〜 16:00    休日 年中無休
拝観料 境内参拝自由 (本堂拝観 200円)


1586年(天正14)、天台宗山門派の寺で豊臣秀吉により奈良東大寺の大仏殿を模して建立されたものである。文禄4年(1595年)に完成した。

大仏は奈良の大仏より大きい18mの大きさであったというが、地震で破壊された。
その後豊臣秀頼により再建されたが、寛政10年(1798年)に落雷による火災で焼失した後は同様の規模のものは再建されなかった
今は境内に有る高さ4mにもなる、梵鐘が残っているだけである。

梵鐘には「国家安康・君臣豊楽」の銘文が刻まれている。
「家康の名を2分して国安らかに豊臣を君として子孫繁栄を楽しむ」と難癖をつけられて、豊臣氏滅亡のきっかけとなった。
重要文化財に指定されている梵鐘は日本三代名鐘のひとつである。


◎国家安康の鐘
 慶長19年(1614年)に京都三条釜座の名古屋三昌により鋳造された。大きさは高さ4.2m、外形2.8m、厚さ0.27m、重さは82.7トンである。



 
◎本尊盧舎那仏坐像
 江戸時代の天保年間、焼失した旧大仏を模した1/10の木造半身像が寄進されたが、昭和48年(1973年)に失火による火災により焼失した。
 大仏は台座の一部などが現存する。
 大仏殿の遺物としては他に柱の金輪、屋根の軒先に吊されていた風鐸が残されている。

◎大黒天像
 桓武天皇の勅命により最澄(伝教大師)が延暦寺を建立するため比叡登山中のお告げにより彫刻されたと伝えられるものである。
 さらにその像を秀吉が気に入り1/10サイズで作らせ手元に置いたとされる小さい像ととも大黒天堂に安置されている。

 

豊国神社


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 豊国神社           09.07.16
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京都市東山区大和大路正面茶屋町530


主祭神 豊臣秀吉公

創建 1599年(慶長4年)

拝観・開館時間 9:00 - 16:30  無休 
料金 宝物館  大人 300円 
 
 
・主祭神が大名として統治した地である大阪市の大阪城公園や滋賀県長浜市、石川県金沢市のほか、出身地の名古屋市中村区にも豊臣秀吉を祀る同名の神社がある。

・豊臣秀吉の死去の翌年の1599年(慶長4年)、遺体が遺命により方広寺の近くの阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬され、その麓に方広寺の鎮守社として廟所が建立されたのに始まる。
 後陽成天皇から正一位の神階と豊国大明神の神号が贈られ鎮座祭が盛大に行われた。

・しかし、1615年(元和元年)に豊臣宗家が滅亡すると、徳川幕府により神号が廃され、社領は没収、社殿は朽ちるままにされ、神体は新日吉神社にひそかに移し祀られた。

・1868年(明治元年)、明治天皇が大阪に行幸したとき、豊臣秀吉を、天下を統一しながら幕府は作らなかった尊皇の功臣であるとして、豊国神社の再興を布告した。

・1873年(明治6年)、別格官幣社に列格した。

・1880年(明治13年)、方広寺大仏殿跡地の現在地に社殿が完成し、遷座が行われた。


◎文化財
 国宝:唐門
 重要文化財:紙本着色豊国祭図 六曲屏風一双 狩野内膳筆 黄地菊桐文付紗綾胴服 唐櫃 3点(桐唐草蒔絵、桐鳳凰蒔絵、桐薄蒔絵) 鉄燈篭 薙刀直シ刀 無銘 伝粟田口吉光(骨喰)(ほねばみ)


小浜城


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 小浜城              09.06.18
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福井県小浜市城内1-7-55

通称 雲浜城
城郭構造 平城
築城主 京極高次
 
小浜城(おばまじょう)は福井県小浜市にある城。雲浜城(うんぴんじょう)との雅号をもつ。

 


・慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで功績があった京極高次が若狭国を拝領し、慶長6年(1601年)小浜城の築城を開始した。

・二代京極忠高は越前敦賀郡を寛永元年(1624年)に加増され、藩領が確定する。

・寛永11年(1634年)に京極家が出雲へ転封されると、酒井忠勝が11万3000石で小浜藩に封じられ入城、城の整備拡張が続いた。

・寛永15年(1637年)には、3層の天守が完成し、寛永19年(1641年)に城が完成した。

・その後、酒井氏のもと明治維新を迎えたが、明治4年(1871年)に城の大部分を火災で焼失した。

・明治5年(1872年)に本丸跡に酒井忠勝を祀る小浜神社が建立された

・現在は本丸以外は住宅街となり、城の遺構としては本丸部分の外周石垣を残すのみである。